ACT.14 ブラックボックス


  鉄の翼から雨降らしの里まで、距離はそうない。ブレイマー殲滅、悲願達成となればユニオンの注意は完全にそちらに向いてしま ったようで、地下水路を全速力で駆け抜けるのに追っ手を気にする必要はなかった。が、追っ手以上に気になる存在はある。
  先頭を率先してハルが走るのは道案内をする手間が省けるからだ、続いてエース、というのがあるべき構図のはずだがハルの真後ろを全く 遅れをとらず追うのはエースではなく、ローズを背負ったレキだ。
「何やってんの!?なんでレキ一人に任せてあんたがこの様なのよっ!」
「訊きてぇのは俺の方だっ。化けもんかあいつぁっ」
口をへの字に曲げて前方二人のペースに着いていくのがやっとのエース、ラヴェンダーは青筋を浮かべたかと思うと颯爽とその男を 抜き去った。などと無駄な区間新記録を作っている場合ではない。井戸に続く梯子にハルが手を掛けた。
「エース、ラヴェンダー!どっちか後ろからレキ押して!!俺はジェイたち呼んでくる!」
「任せろ!先行け!」
最後尾からエースが声を張り上げて応答する。勢いづいたのは相手がローズだからだ、これが男ならエースは真っ先にラヴェンダー の背中を押したに違いない。再びラヴェンダーを抜き去って、がっちりとローズ(を主に)とレキを支えた。
  流石にレキの足取りが重い。今までが超人過ぎたのだ、エースは先刻の言葉通りにレキを蹴落としてローズを肩代わりした。
「……エース!」
「走るぞ。ラヴェンダーにおぶってもらえ、それが嫌なら遅れずに走ってこいよ」
レキが何か言おうとして、また言葉が喉につまる。今度は緊張や、ましてや感動なんて代物の所行ではない、単に不安と体力の限界と 呼吸困難の相乗効果だ。熱中症のジェイを僅か十分足らずで放り捨てた男に、意識のないローズを任せられるはずもない。レキは今まで 以上の速さで梯子を駆け上った。
  ハルの判断と行動は的確で、かつ迅速だった。梯子を上り終えて少し走ったところでハルが、ジェイ、シオ、そしてナガヒゲを引き 連れてレキたちを迎え入れる。ジェイが顔面蒼白で何かごちゃごちゃ喚いているのが見えたが、レキには何を言っているかまでは把握 できない。
「お前たちゃあ何をしとるんじゃあー!!怪我人に重傷人を背負わせおって、殺す気かぁ~!」
 そう、結局はレキがローズをおぶってここまで来た。ナガヒゲの雄叫びは耳元で叫ばれたのだから当然聞こえる。エースがやはり ごちゃごちゃ弁解しているのも聞こえたが理解まで追いつかない。
  足が、ふらつく。意識と視界が同時に一瞬途切れたが、次の瞬間レキはまた立っていた。ジェイのヘルメットの縁が頬に当たる。
「俺はいいから、ローズの方……」
「良くねえよ……!!血の気の失せた顔して何言ってんだっ。大人しく肩貸せ!」
どうやら青い顔をしていたのはお互い様だったようだ、ぼやける視界の中でハルとシオがユウを運ぶのが見える。
  溜息が漏れた。安堵などではない、レキにとっては覚悟の深く長い溜息だった。

  ナガヒゲの診療所が本来の役目を果たすのはいつ以来なのか、病室のドアが乱暴に開け放され、ローズがベッドにようやく横たわる。 白いシーツは一瞬で真っ赤に染まった。
  診療所にある物-ベッド、カーテン、包帯、床さめも皆白い。今はそれがどうしようもなく恨めしかった。この白い空間にローズの血は 悪目立ちしすぎる。当てつけがましいくらいに、映える。
  ハルは自分の手が同じく赤いことに気付いた。そして、それ以上に赤いレキに気付く。
「ローズ!ローズっ!私よ、分かるでしょ!?ねえったら!!」
「ナガヒゲ……、ローズ、助からないなんてこと、ないよな。大丈夫なんだろ……?」
「(バカッ……ジェイ!)」
ハルが即座に苦虫を潰す。視線を送る前に、壁にもたれていたレキがゆっくりと体を起こした。その壁も、やはり赤かった。
「ナガヒゲ」
取り乱しっぱなしのラヴェンダーとも、放心しきったジェイとも違う、しっかりとした口調だ。しかしナガヒゲは振り向かなかった。 包帯を巻く手を止めただけだ。
「ユウはもう助からん」
再び包帯を手に取る。義務のように巻き付けるが、確かにそれに意味があるかは疑わしかった。
「……んですってぇ……!!じじい!もう一回言ってみな!」
「ラヴェンダー!よせよ……っ」
ナガヒゲの、自慢の長い髭を掴むラヴェンダー、更にそれを羽交い締めにして制すジェイ。形だけの包帯より数倍無意味だ。
  この部屋の中にはもはや意味のないものしか存在しない。必要以上に赤い血も白いシーツも、包帯も、交わされる会話も叫ばれる名も、 全て彼女の命には関係のないものばかりだ。おそらくレキ自身も。ただレキの中のある部分は違った。
「俺の血使って。垂れ流してんのも勿体ねえし、まだ生きてるよな、ユウ」
「……輸血したところで手遅れじゃ。傷口から出血が止まらん……」
「そういう意味じゃねえよ」
レキがおもむろにジャケットを脱ぐ。はさみもついでに握りとった。次の瞬間-
「バッ……!!何やってんだよレキ!!」
ジェイが目を見開く。ラヴェンダーは瞬時に目をつむり顔を逸らした。とち狂った行動にしか見えないのだろう、ハルもエースも、 そしてシオもその光景に息を呑んだ。
  レキの赤い、赤い血が壊れたスプリンクラーのように勢いよく四散する。動脈を派手にぶった切れば当然のことだ、その血は周囲を 更に血なまぐさく変えた。レキは構わずもう片方の腕で自らの血液を絞り出すように力を込めた。
「レキ!!やめろって!」
ジェイが掴んだ肩を、恐ろしく素早く離した。手だけではない、無意識に半歩レキから後ずさっていた。目が逸らせない、しかし本音 は目どころかこの場から逃げ出してしまいたかった。感覚の全てが麻痺して、ジェイはそれ以上何ひとつ言えず、動けなくなった。 その全てをラヴェンダーが代弁する。
「何なの、なんで……こ、これって……」
ジェイが抱いた言い表しようのない驚愕を-。
「……うっ」
感じたことのない恐怖や嫌悪、ジェイがその瞬間抱いてしまった全ての感情をラヴェンダーは堪えきれず体現した。口元を押さえて 一気に病室を出る。棒立ちのハルを押しのけて洗面所へ走った。
「……お前……まさか……」
  レキには誰がどんな反応を示しているだとかは全て背中の出来事で、分からなかったし興味もなかった。ただひたすらに自分の腕から 流れ出る血液をユウの傷口に注ぐ。火山口さながらに吹き出ていたユウの血はいつしか止まっていた。レキの血だけがボタボタと生々しい 音と臭いで落ちていく。
「ふ、塞がった……っ、傷口が……」
ナガヒゲが目の当たりにした事態をそのまま口にする。信じ難いからこそ口に出さずにはいられないのかもしれない。
  レキはユウの心臓に耳を押し当てた。リズムを刻んで、微かに上下するのが分かる。溜息が、ひとつ漏れた。今度は心からの安堵が 吐息に混ざる。しかし、そうしたのはレキひとりだった。気付けばジェイは自分の後方で座り込んでいたし、エースは火を点けないまま の煙草を足元にこぼしている。
「お前……ブレイマー……なのか……?」
-ハルだった。おそらくこの確認は、彼以外は待っていても誰も切り出さなかっただろう。しかし切り出す必要があることをやはり 誰もが分かっていた。理性の上では、の話だがよもや誰の感慨が一番理性的かなど判断できない。
  シオが、今初めて涙をこぼした。声を出さぬように口元を両手で覆ってただ俯く。
「……否定、しろよ」
それはジェイの願いだった。意味のない言葉がまたひとつ増えただけだ、ジェイ自身気付いていたからその続きを口に出すことができ ない。表情を悟られないように彼もやはり俯いた。
「何でだよ、レキ……」
吐きそうだ-渦巻いているのは感情と言葉、その二つが全く噛み合ってくれない。
  レキはそんなジェイを、むせび泣くシオを見て苦笑した。
「悪ぃシオ。黙っとけって言ったの俺なのになっ」
シオが大きくかぶりを振る。
  ハルの問に目線を合わせて答える気にはなれなかった。だからシオをダシにした、と言えば聞こえは悪いがそれがレキの精一杯だった。
  レキがベッドから離れると同時に、ドアの前に立っていたエースが反射的に道を開ける。同時にしまった、と思ったが後の祭りだ。
レキから今日一番の苦笑が漏れた。
「ナガヒゲ、マジ悪ぃんだけど俺の方も応急処置してくんねえ?止まんねぇんだよ、これ」
「わ、わかった。ひとまず隣室でじゃ」
レキは誰とも目を合わせずに部屋を出た。鉄臭い部屋に残された五人も、ただ各々床ばかりを見つめた。