目が覚めて、瞼を押し上げて、初めに視界に映し出されたのが全く知らない他人だと、人は激しい動悸に襲われるらしい。悲鳴は上げ損ねた。そのために吸い込んだはずの空気が乾ききっていたせいで、喉の奥に突き刺さる。状況も唾液も呑み込むことが難しかったが、それでも何となく「寝起き早々の絶体絶命」という類まれな状況下に自分が置かれているらしいことは承知できた。
見知らぬ少女が、魔導杖の先端をこちらに向けて立っている。杖の先端部分には成人男性の拳ほどもあろうかという巨大な宝石──それがガラス玉じゃないのなら──が鎮座していて、それはたぶん、おそらく、いや絶対、とんでもなく破壊力のある魔法だかなんだかを発するためのものなのだろう。少女の構えには一部の隙も無い。いつでもその「何か」を放てる体勢。
僕は、驚愕と困惑、恐怖と混乱をごちゃまぜにしたものを気管に詰まらせでもしたのか、しばらくの間激しく咳き込んだ。少女はというと、僕が一通り噎せ返り終わるまで、微動だにせず待ってくれていた。
どういうつもりなのか、さっぱり分からない。僕は呼吸を整えながら、彼女が言葉を発するのを期待していたが、どうやらそれは向こうも同じようだった。唇を真一文字に結んで僕の顔面を睨みつけている。互いに無言の牽制を続けること数十秒──痺れを切らした少女が、小さく嘆息しながら杖を握り直したのを、僕は見逃さなかった。
「わああああああ! ちょっ! 一回待って! 待ってください! だいたいどういう状況!? 僕、何かしました!?」
心臓はもう、早鐘を打つだとかの段階を越えている。咳き込んでいる間に与えられていた猶予で、僕は向けられている杖の切っ先よりも"やばい"ものに気が付いていた。"こんなもの"を何食わぬ顔で用意したのが彼女なら、僕の命の手綱は、もう僕自身の手元にはないのだと悟るしかない。命乞いに特に抵抗はないからして、これから僕は全力で、誠心誠意、助命を懇願することにする。
「……何かって。あなたは"悪魔"で、私は魔術師。状況は至って簡単」
予想と違って淡々とした口調で返された。でもこれは一筋の光明だ。僕は観察眼には少し自信がある。彼女の眼には微かに狼狽が見える、つまり彼女の平静は作り物。そういうことなら説得は全力、誠意、あとはそう、勢いが大事だ。人情に訴えるのも効果的かもしれない。
「いや、さすがにちょっと失礼すぎるでしょ! こんな美少年つかまえて、開口一番悪魔呼ばわり!」
僕は座り姿勢を整えながら、床石に僅かに反射している自分の容貌を確認した。そしてすぐに訂正をいれることにした。
「いや、美少年は言い過ぎました。えー……そこそこは整った顔立ちの、一部の層には受けそうな、か弱い少年つかまえてっ!」
哀しいがここで客観性を欠くのは良くない。嘘偽りのないありのままを、勢いに乗せてぶつけるからこそ意味がある。案の定、彼女の瞳に揺らいでいた狼狽の色は、目に見えて濃く確かなものに変わった。
「……は? あなた、……誰?」
杖は下げてくれない。代わりとばかりに、眉尻を少しだけ下げてくれた。
「僕ですか? ああ、名前──」
僕は場がようやく、正しい男女の出会いの場面というやつに近づいたことに安堵していた。幾分ぶっきらぼうな問い方ではあったが、まずはこうやって互いに自己紹介をしてから関係というものは築くべきだろう。それから共通の話題を見つけて、行動を共にして、やがては苦楽を分かち合う──これはその小さな、けれど大切な第一歩なのである。
そして僕は、今まさにその第一歩を盛大に踏み外そうとしていた。
先刻まで頼りなく揺れていた瞳に、今や狼狽の色はない。少女は射るような視線を、臆面もなく向けてくる。
居心地が悪かった。自分の名前が頭の中に浮かんでこないなんて、そんなことあるのか? ──僕は所在なく、身につけている衣服やそのポケットの中を漁った。その場しのぎの仕草だったが、意外にも功を奏す。ズボンのポケットの奥に手ごたえを感じて、ついている革ひもごとそれを引きずり出した。思ったとおり、手ごたえの正体は"守り石"だった。守り石は、魔術師の家系では伝統的な、親から子への最初の贈り物だ。子どもを守るための魔力が込められている。魔術師としてごく普通に、真っ当に成長すれば、それは無用の長物になるわけだから、僕がこうして持ち歩いていることには多少なりとも理由があるのだろう。が、残念ながら僕はその理由についても他人事のようにピンとこなかった。とりあえず今は、この石に彫られた名が僕の唯一の身分証明として役立ってくれることに感謝するしかない。
石に刻まれた文字を親指の腹でなぞる。間違いない。その名の響きに、僕は少しの違和感も抱かない。
「──ハイス。ハイスです。姓は……。思い出せません、ね。っていうか、もうぶっちゃけ、他に何も思い出せませんけど」
自分の名前を思い出せた、という安堵と、名前すら思い出せなかったという焦燥が、僕に白旗を上げさせた。今更取り繕ったところで、僕が自己紹介の最初の一手にひどく時間を要した事実はどうせぬぐえない。
「あなたは? 血の気の多い魔法使いだってこと以外で自己紹介できます? できればなんで僕がこんなところでこんな目に合っていたのかだけでも、説明してもらえると助かるんですけど」
開き直るつもりはなかったが、杖を意地でも下ろさない少女に完全降伏するのは悪手のような気がした。それに僕はもう、彼女に恐怖を抱いていなかった。言動はさておき、彼女からは明確な殺意を感じられない。自分の態度を決めてしまうと、今の今まで肌を刺すほどに張り詰めていると思っていた空気も、実は単に乾燥しきっているだけだと気づくことができた。
「本当に、何も、わからないの」
話し癖なのか詰問のつもりだったのかは判然としないが、彼女の話し方には抑揚があまりない。本来あるべき場所に疑問符が付されなかったせいで、また理解と応答が一歩遅れてしまった。今のは、こちらに向けられた確認なのだろう。
「そう、ですね……」
答えに窮するとまた何かを疑われる。そう思ってはいるものの、慎重に言葉を選びたいのもまた本音だった。積極的に殺されはしない確率が高いだけで、安全が保障されているわけではないのだから。
置かれているこの、極限までわけの分からない状況にしては、僕は比較的冷静に思考を巡らせることができている。が、あまりそれに意味がないことにも気づいてはいる。答えは慎重に、と思ったところで僕には吟味に値する選択肢がそもそも無いのだ。だから答えは素直に、がこの場でとれる最善手だ。
「自分が魔術師の端くれだってことは分かります。これもあるし」
守り石に刻まれた名を指の腹でなぞる。これがどういう意味合いの石かということを、僕は淀みなく説明できるし、魔法の使い方も、使える術も何となく身体が覚えている。
「あなたみたいに何かに特化してはいませんが、基本的な術はだいたい使えると思います。あと分かること……分かること……う~ん……好きな色、は濃い青色。好きな食べ物はアップルパイ、趣味は散歩と料理と人間観察と──」
「分かった、もういい」
彼女が発した数少ない言葉の中で、今のが一番はっきりした物言いだった。有無を言わさぬ強制力を感じて僕は咄嗟に口をつぐんだ。
「……フレデリカ」
「え?」
「私の名前。街で魔道具店をやってるから、ときどきこうやって各地の遺跡を探索して、商品になりそうなものや材料を集めてる」
「遺跡──」
改めて周囲の環境に注意を向けてみると、なるほど彼女──フレデリカの言うとおり、風化した石壁や床、穴の空いたままの高い天井にはそれらしき風格があった。
「墓所の遺跡……で合ってます?」
「……たぶん」
僕が今の今まで座り込んでいた手狭な寝台のようなものは、棺だった。視線を横にスライドさせると、自分の隣に五つの棺が列をなしているのが見える。隣は空っぽ。その隣は閉じられているから分からない。さらにその隣、を確認しようと身を乗り出してやめる。物的証拠が揃ってきてしまったので、僕は覚悟を決めることにした。
Side A-1
