僕こと、ハイスの封印が解かれて三日目の朝がやってきた。朝食を済ませると、フレデリカは研究部屋を整頓したいと言って地下に籠ってしまった。今後はその部屋を僕の、僕の中に居座っている悪魔の浄化用に使いたいとのことだった。フレデリカの許可が出るまでは、僕とジョセフは地下への立ち入りを禁じられている。理由は小難しいものではない。ゴルド遺跡のときと同じで、フレデリカが開発した魔法式の漏洩を防ぐためだ。
僕は店番も兼ねて、陳列棚を品定めしながらそこに並ぶ魔道具たちを丁寧に磨き上げていた。カウンターではジョセフが、やはり暇を持て余して来客用のティーセットを磨いている。
「おい、悪魔のスペシャル盛り合わせ野郎。さっきから私のことをちらっちら見てくるのは何なんだ。気分が悪いから、今すぐやめろ。今、すぐにだ。本当に貴様は救いようのない無教養人間だなっ」
「あーはいはい、すいませんね。見たくて見てるんじゃないんだけど」
僕の視界の中では単なる背景に過ぎなかったジョセフに、うっかりピントが合ってしまった。盗み見ていたのは当然ジョセフじゃない。その手前の鳥籠、真っ赤な翅を翻してぎこちなく飛ぶ不死蝶の姿だ。
(思ってたよりもめちゃくちゃ赤いんだな……)
不死蝶が吸収した魔力が人間のものなら、翅は青色に、精霊や悪魔のものなら赤色に、そして悪魔憑きでありながら人としての自我が保たれている僕は、混色の紫色になる。この色彩変化の特質を利用して、フレデリカは不死蝶を悪魔探知器として運用している。そこまでは良い。賢い運用法だとさえ思った。が、その実態は随分お粗末なものだった。
蝶がいる鳥籠は店のカウンターの隅に、ひっそりと置かれている。そしてカウンターにはほとんど常にジョセフがいる。ギルドに登録している正真正銘の精霊であるジョセフの魔力は、蝶の翅をこれでもかというほど真っ赤に染めてあげてしまう。──ほとんど、常に。おかげで店を訪れる者のほとんどは、この蝶は本来赤いものだと思っているらしい。これが本来意図したように機能するのは、ジョセフ不在時に限るということだ。
悪魔探知器としての有用性はさておき、不死蝶はこの店のマスコットとしては十分役割を果たしている。この店の名前が「リトルバタフライポット」である時点で、フレデリカからはそこそこ愛着を持たれているのだろうと分かる。
(それにしても──)
僕はこの三日間の観察で、フレデリカが「超」がつく優秀な魔術師であることには確信を得つつある。出会った日に仕掛けられた超難解魔法陣も、苦手だとか宣うくせに実は普通に扱える生成魔法も、店の魔道具やジョセフに過剰に分け与えてもなお有り余る魔力量も、僕が知っている一般的な魔術師とは一線を画すレベルにある。極めつけは地下に保管してある研究量。僕は、昨日入口から少しだけ見せられた地下書庫の異様さを忘れられずにいる。
「研究途中の資料もあるから立ち入らないでほしい」という、有り体の紹介だった。そういうことなら扉を閉めたまま注意喚起だけすれば済んだ話なのに、フレデリカのルームツアーは変なところが律義で丁寧だった。中の様子が覗き込めるように、わざわざ扉を開いてくれたのだが、僕はその光景に息を呑むことになる。
手狭な通路のような部屋の壁一面、その書棚には一切の隙間なく本が詰め込まれている。奥に見える机の上に、読み止しの本が数冊平置きされているくらいで、書庫の中は整理整頓されていた。魔術師のイメージによくある「部屋中に堆く積まれた本の山」はここにはない。その代わりに整然とした、静かなる狂気が横たわっていた。
「フレデリカは……悪魔がその、好きなんですか?」
何か言わずにはいられなかった。書棚に行儀よく並んでいる本の、目に見える範囲でのほとんどすべてが、いわゆる"グリモア"と呼ばれる悪魔の書だったのだ。
悪魔の召喚は法で禁じられているが、グリモアの所持や蒐集自体は違法ではない。というのも世に出回っている多くのグリモアは近年作られた偽物で、記された悪魔の特質も召喚のための陣もでたらめであることが知れているからだ。そうだとしても、この壁一面、いや部屋の全面を埋め尽くすほどの量は、尋常とはいえない。
僕にフレデリカを咎めるような意図はなかった。当然面白がって茶化したわけでもないが、発言が軽率だったことはフレデリカの反応で知れた。フレデリカは扉を閉めながら「大嫌い」とだけ口にした。今まで見せたことのない、憎悪を帯びた表情で。
「そうですよね。すみません、変なこと言って」
取り繕うのに必死な僕を後目に、フレデリカは平然とした様子で下りてきた階段まで戻ると、地下で一番存在感を放つ、厳めしい両開き扉の前で振り返った。
「ここは私が魔法実験に使ったりする部屋。今後はここを、あなたの中にいる悪魔の浄化に使う予定。少し準備が必要だから……明日の夜にでも、一体目の悪魔を剥がしたいんだけど、いい?」
悪魔を剥がす、とかいう聞きなれない表現に一抹の不安を抱きながらも、僕は頷いて了承の意を示した。扉は開かれないままだった。見えているものからできるだけ多くの情報を得ようとする僕の思考の癖と好奇心は、ともするとこうして相手の警戒心を高めかねない。今回は、口走った一言が余計だったというのも多分にあるだろう。
(相当な能力を持った魔術師、と同時に売れない魔道具店の店主。後者が道楽なんだろうけど……生計を立てているのも後者)
そして、表情に乏しいかと思えばちょっとしたことに柔らかく笑ったり、さっきみたいに憎悪を隠さなかったりもする。
(不思議な人だな……)
僕は店内の整備と商品である魔道具の把握に勤しみながら、合間に昨日のことを思い出し、現状を分析し、今後に思いを馳せていた。要するに、暇だった。この際多少厄介でも面倒でもかまわないから、客と名の付く存在にお目にかかりたい。そういう切なる願いが、どこかの精霊だか悪魔だかに聞き入れられたのか、今日初めてのドアベルの音が店内に鳴り響く。
「いらっしゃいませぇー」
これ。この言葉を言いたかった。この永遠に続くと思われた不毛な余暇を打ち破ってくれるなら灯石ひとつの購入でもかまわない。
入口に立っていたのは30代くらい(あくまで印象)の大柄な女性で、合金でできた軽量な胸当ての下から濃い青色に染められた丈長のローブが覗いていた。この特徴的な出で立ちのせいで、僕はこの救世主が客ではないことを瞬時に悟ることになる。鎧の上からでも分かる鍛え上げられた肉体は、筋骨隆々と称するにふさわしい。この人が、何かのきっかけで店内で暴れ出したとしてもたぶん僕は勝てない。などと不躾に品定めしていたのは、相手方も同じだった。
「ははぁ……君が陳情書にあった、フレデリカのヒモか」
「依頼人兼、助手です」
開口一番とんでもないことを言い出した訪問者に、僕は間髪入れず事実を述べた。彼女は適当に頷いて、それでもなお親しみやすさと厭らしさを絶妙にブレンドした笑みを絶やさない。
「違いますよ、グリムロック殿。当店の新しい小間使いでございます」
ジョセフがいそいそとカウンターから出てきたかと思うと、先刻まで丁寧に磨いていたティーカップにハーブティーを並々注いで、来客用の丸テーブルの上に置いた。
「さっそくなじんでいるようだね、結構っ」
グリムロックと呼ばれた大柄な女性は、軽快に笑いながら慣れた足取りで丸テーブルの前までやってきて椅子を引いた。
この三日間で何度か聞いた名だった。それに加えて、魔術管理局の分かりやすい武装は僕のすかすか脳内アーカイブにも残っている情報だったから、彼女が何者かは言わずと知れた。
「フレデリカ様が書状を送ったのは昨日だったと思いますが、随分お早いご到着ですね」
グリムロックは席につくなり、一口でハーブティーを胃の中に流し込んでしまった。ジョセフはそれを見越していたらしい、ソーサーの上に置かれたカップにすかさず二杯目を注ぐ。
「鳩に速達用の魔法をかけたろう? 管理局を通さず直接私のところに届いたんだ。どうせ仕事もあったから早めに立ち寄っておこうと思ったまでだ。フレデリカは? 不在か?」
「それが件の準備で地下に籠られてまして」
#2 Side A
