Side A:Hyth
鼻腔をくすぐる香ばしいバターの香りで、僕は割と爽やかに目を覚ました。真っ先に視界に入ったのが、絨毯の上に座り込んでいるフレデリカ。何をしているかと思えば、その体勢で朝食のパンを頬張っている。絨毯の上に置かれているトレイには、大量のパンの他にミルクピッチャーと明らかに一人分でないバターやチーズが添えられている。「……起きた?」
「えーっと、はい……そうみたいですね。おはようございます」
「おはよう」
フレデリカは何事もなかったかのように、僕の分のパンやミルクを準備してくれる。正直食欲はあまりなかったが、善意で渡されたものを突き返す気にもなれない。というか、そもそもなぜこんなに平和な朝を迎えているのだろう。天窓からは朝の日差しが燦々と差しこみ、鳥のさえずりが聞こえてくる。ここが完全封印空間の地下部屋だということを抜きにすれば、僕らは朝から随分快いピクニックに興じているようでもある。
「僕は、フレデリカに危害を加えたりしていませんか? そうでなくても、暴言を吐いたり」
「特には。いちいち鼻につくプライドの高そうな悪魔だった」
「じゃあやっぱり、僕が寝ていた間は悪魔の人格が表出していたってことですよね……」
僕にその覚えはない。夢も見ずに熟睡していたらしい。だからこそ疲労感のようなものは一切ないし、何ならいつもより身体が軽いくらいだ。
「そうだね。封印を解除した状態、かつハイスの意識が無いことを条件に、その層の悪魔が表に出てくるみたい。……というようなやりとりも、あなたの中の悪魔は全部聞いてる。私の名前を知っていたし、だいたいの事情を把握しているみたいだった。今後発言には注意が必要かもしれない」
「聞いている、ですか。それ、『見ている』かどうかは分かりましたか」
パンをちぎっていたフレデリカの手が止まった。
「……ごめん、それも確かめるべきだった。そのときは、気づかなくて……」
「ああ、いえ、いいんです。本当のことを言うかは疑わしいですし。僕の中で聞いているのは確実として、見ている可能性も考慮しておいたほうがいいってことですよね」
僕の中の悪魔は、僕の耳を通して外界の情報を得ることができている、というのは、確かに見過ごせない事実だ。視覚情報の共有についても確かめる必要はあるが、何よりそれが封印を解いたからなのか、それとも封印された状態でもできていたことなのかは知っておきたい。僕はその程度に合わせて言動を選ぶことになる。
一足先に朝食を平らげたフレデリカは、僕が義務的に咀嚼するのを観察しながら、昨夜のやりとりをかいつまんで説明してくれた。話に聞く限りではハーゲンティと名乗った悪魔は、僕という器に特別執着しているわけではないようだ。要求が入手困難な古酒であることや、わざわざ期限を設けるあたりから享楽的な性格もうかがえる。ひとまずフレデリカを傷付けるような、短絡的な真似はしないとみて良さそうだ。
「ともあれ、当面はワイン探しってことになりそうですね。心当たりは?」
「うちの隣に酒場があって。店主のレジーナはうちの魔道具を使ってくれてるし、私にも良くしてくれるから、まずはそこから」
昨日の夕方に灯石の補充にきた女性が確かそうだ。顧客名簿に名前もあった。ボリュームのある巻き毛の黒髪に、分厚い唇、その下にある小さなほくろが印象に残っている。エキゾチックな魅力のある女性だった。僕の姿を目にして興味津々といった雰囲気だったが、簡単に自己紹介をするとすぐに酒場のほうへ戻っていったから、とりわけ会話は交わしていない。フレデリカと懇意にしているというのは少し意外でもある。
「ドワーフ紀のものとなると、さすがに一筋縄ではいかないでしょうけど。そういう人なら人脈もあるでしょうから、有益な情報が得られるかもしません」
「……そんなに、手に入りづらいの」
「手に入りづらいも何も、ドワーフ紀ですよ? 人類史第Ⅰ期。遺跡が遺跡じゃなかった頃の話です。古酒というか、ほとんどオーパーツというか」
フレデリカが分かりやすく青ざめていくので、僕はこれ以上不安を煽らないように、笑ってごまかす他なかった。
絨毯の端からはみ出している主張の激しい魔法陣を見やる。これだけの魔法の才があって、世事に若干、いや、かなり疎いのは何故なんだろう。もしかして出自は物凄く高貴なお方とか? ──と胸中で詮索するも、僕はすぐにかぶりをふった。そんなやんごとないお方なら、地べたに座ってパンを頬張る姿がこんなに様になるはずはないだろうから。
僕らがドワーフ紀と呼んでいる時代は、今から千年以上前にさかのぼる。人類が圧倒的技術力と科学力で地上に君臨していたであろう時代で、エルドラ遺跡やゴルド遺跡のような各地に遺された都市遺跡は、あまねくこのドワーフ紀のものだ。ひとたび遺跡探索を行えば、現代ではおよそ解析不能の素材や文化資料、つまりはオーパーツを多数見つけることができる。だが、そんな大成された文明が何故一様に滅びてしまったのかについては、未だに統一見解は示されていない。分かっているのは、現在では単純な魔法や魔道具で解決できることに、精密な道具を用いて対処していたこと。このことから、ドワーフ紀の人類は総じて魔法が使えなかった、あるいは使えたとしても極少数に限られていたと考えられる。
対して僕らが暮らす「現代」は、人類史でいうところの第Ⅱ期・エルフ紀に区分される。人類が発展と繁栄の手段を、科学技術ではなく魔法に切り替えた時代だ。
「ものは考えようですよ、フレデリカ。遺跡から出るオーパーツも、今でも使えるものが多いじゃないですか。人工的な食料品の成れの果てみたいなやつも、確かどっかの遺跡からは大量発掘されてましたし、希望はあるんじゃないですか?」
「食料品の成れの果て……。よく知ってるね」
「常識問題は自信があります」
虫食いの記憶にしっかり留まってくれている社会知識たちを、僕は全面的に信用することにしている。僕が封印されていた間(それがどのくらいの年月かは定かではないが)に大きく世界情勢が変わったわけでもなさそうで、持っている知識も常識も適用する分には問題がないことは、この数日で確信が持てた。封印される前の僕は、少なくとも人間として勤勉なタイプであったに違いない。
「そういうことならレジーナへの聞き込みはジョセフに任せて、私たちは遺跡探索に行こうか。私が集めない種類の魔道具を片っ端からかき集めてる何でも屋さんもいるから、期待できるかも」
フレデリカの提案を、僕は二つ返事で了承した。何となく口にしていただけの朝食も、そうとなればきちんと摂っておくほうがいい。
僕が食事を再開したのを見届けてから、フレデリカは空になったミルクピッチャーを持って腰を上げた。僕は言おうかどうか、確かめようかどうか迷っていた疑問を、やはり口にすることにする。
「フレデリカは、今の僕がハーゲンティによるなりすましかどうかは疑わないんですか?」
フレデリカに動揺は見られない。
「昨夜話したかんじだと、ハーゲンティはお高く留まってる感じがした。猿真似はしないと思う。望みの内容からしてもなりすますメリットが特にない」
「それはそうですけど……」
「それに、あなたが持つ空気は……どこか柔らかいから」
僕の反応を待たずに、フレデリカはさっさと1階へ上がっていってしまった。
信用はされているようだ。それが嬉しくもあり、不安でもある。フレデリカが僕を信用してくれるに至った根拠が、彼女自身の考え方が、僕はどこか危ういと思っている。彼女はおそらく、悪魔からすれば騙しやすい人間だ。平静、冷静を「装っている」ことが分かる。理詰めのようでいて、最後は感覚に身をゆだねる。
プライドが高いということと高潔であるということは必ずしも同一ではないから、そういうのに限って、実は手段は選ばないということは往々にしてある。ハーゲンティという悪魔が、そういうタイプでない確証は持てない。ゲームを楽しむようなやり口も、話が通じるようにみせるための理性的なふるまいも、すべて目的達成のための演技である可能性もなくはないのだ。
「柔らかい、か」
僕の中で聞いていた悪魔は、何を思うのだろう。ただ鑑賞して嘲笑うのだろうか、それともなりすますための参考にでもするのだろうか。
自分の中に居座っているはずなのに、僕にそれを確認する手立てはない。僕にできることといえば、できるだけ冷静に、客観的に、フレデリカの思考の綻びを繕うことくらいだ。彼女が疑心暗鬼で過ごさずに済むようにしてあげたい。そのためにできることはある。
(でもそれが最善かどうかは……怪しいところなんだよなぁ)
溜息だけを吐き出して、僕は独り言を胸中に留めた。
#2 Side A
