Bad to the bone#2 Side B

Side B:Frederica

 眠りについたハイスが椅子から転げ落ちないように、私は彼の左肩をしばらくの間支えていた。"ザントマンの砂"を呑めば強制的に、そしてこんなふうに一瞬で深い眠りにつくことができるけれど、ハイスが心配していたように適切な容量を逸脱すれば、容易に悪用もできる。だから店に置くつもりはない。そもそもこれは今の状況を想定して、予め私が買っておいたものだ。
「お優しいですねぇ、あなたは」
 ハイスの口からハイスの声が聞こえる。あたりまえのことのはずなのに、それが彼の言葉ではないと分かるから気持ちが悪い。本当に、不快だ。支えていた肩から、私はすぐに手を離した。それから数歩分、後ろに下がって距離をとる。
「しかしそれ故に少し危機感に欠けるかもしれませんねぇ。私が紳士でなければ、目覚めた瞬間に貴方の首を掻き切る可能性もあった。"彼"が危惧していたとおりにね」
「紳士? 紳士は他人の身体に不法侵入して居座ったりしない」
 ついでに言うと息をするように嘘も吐かない。ハイスの身体能力で私の首を「掻き切る」ことは不可能だ。せいぜい時間をかけて首を絞めるか、不意打ちで殴打くらいが関の山。
「居座っているつもりはありません。私はただ少しお邪魔しているだけです。貴方に危害を加えるつもりもありませんから、そんなに恐い顔をしないでいただきたい。脅しのように聞こえてしまったかもしれませんが、先ほどのは忠告です。ハイスくんの中にいる私以外の……少々礼儀に欠ける者たちには、もう少し注意を払ったほうが良いでしょうからねぇ」
 大抵の悪魔は饒舌だ。御多分に漏れず、こいつも聞いてもいないことをべらべらとよく喋る。そのほとんどがどうでもいいことか、嘘か、虚飾。だから相手にしなくていい。
 椅子の背に身体を預けて偉そうに足を組む姿も、人を見下したような不快な笑みも、すべてがハイスのものではないと私に知らせてくれる。やはりハイスの意識がない状態でないと、封印を解いたところで悪魔は身体の主導権を握れないようだ。それに対する疑問を、今は考察している場合ではない。
「居座っているつもりがないなら、あなたの意思でその器からは出ていけるはず」
「ふぅむ……それはそうかもしれませんが。出ていく理由が私のほうには特にありません。こうして封印も解かれ、"彼"の意識がないときは活動もできる。それがこういう美しい月夜なのだから言うことはない。私は他の連中と違って、彼の器で悪さをしようなどとは思っていませんし……現状維持が一番、双方の利益になる気がするのですがねぇ」
「話にならない」
「おや。フレデリカ嬢こそ、ビジネスというものを理解していないのでは?」
 何がビジネスだ。何かに寄生しないと、この世界に留まることもできない曖昧な存在のくせに。
「あぁ、いけませんねぇ。曲がりなりにも商売人が、そんなふうに心の内を顔に出してしまっては。あなたは私と交渉したいのでしょう? 取引相手には常に笑顔でいなければ。余裕がないことが相手に分かれば、たちまちに足元を見られてしまいます」
「ご忠告どうもありがとう。……要はあなたにとって利益があれば、ハイスの身体から出ていくこともあり得る、ということよね」
「ええ、構いませんよ。私は楽しみたいがために彼の身体を借りているだけですから。望みが叶い、思う存分堪能できたら、彼の身体から出ていくことをお約束いたしましょう」
 商人お得意の、満面の作り笑顔──それはどことなくハイスのものに近い──を前に、私はおそらく随分間の抜けた顔を晒していたと思う。
 この悪魔の言うとおり、私は交渉をするつもりでこの空間を用意した。予め練っておいた幾通りもの交渉材料の中には、ほとんど脅迫のようなものもある。それらをひとつも提示しないうちに、悪魔の方から交換条件を提案されるとは思っていなかった。いや、気を抜いている場合ではない。難航するのはおそらくここからなのだから。
「あなたの、望みとは?」
 悪魔は終始笑顔を絶やさない。ハイスの顔で何度となく作られるその笑みに、私は慣れることができない。できそうもない。こいつの指摘通り、私は自分自身の感情や表情さえ掌握できないことに苛立ちを覚えていた。
「そうですねぇ。せっかくこうして形を得たのですから……ワイン。ドワーフ紀に作られたワインをいただきたい。いかがでしょう?」
「……ワイン?」
「私の職能のひとつは『ワインを作り出す』というものです。思ったより平和的でしょう? ですから自分で作れはするのですが、何というかこう……インスタント、と申しますか。そうではなく、人の手で生み出された至高のワインを呑みたいのです。歴史の深みというものを、是非この舌で堪能したい」
 わざわざ舌なめずりしてみせるのを、私は視界の中央から意図的に外したのだが、悪寒が背中を走るのは止められなかった。
「指定はそれだけ?」
「期限を設けましょう。ンンッ……4.2、いやせいぜい4といったところか、だとすると──」
(何なの……)
 独特な咳払いを皮きりに突如として何かを計算しはじめた。顎先に手を添えて、ぶつくさと数字を独り言ちているが、それがひどく楽し気に見える。
「10日間、が限度でしょうねぇ。明日から10日以内に、ドワーフ紀に製造されたワインをお持ちいただく。それを味わうことができたら、私はこの身体から出ていくといたしましょう」
「ハイスの身体から出て、坩堝の世界へ還る」
「おや、用心深い。おっしゃるとおり。未練がましく別の器にしがみついたりはいたしません。では、これにて交渉成立、でよろしいかな?」
 私は黙って一度だけ頷いた。倫理に反するわけでも、無理難題というわけでもない。これ以上ない好条件だ。そこに疑いは当然持っている。だからといってこの場でそれをぶちまける意味はない。
「そうそう、私としたことが。レディーを前に名乗るのを忘れていました。私はハーゲンティ。以後お見知りおきを」
 私は無反応を貫いた。この悪魔はこれみよがしに私の名を呼んでいたし、私が名乗る必要はない。百歩譲ってどこかにその必要性があったとしても、私は名乗らない。
 悪魔が大げさに肩を竦めるのも無視して、私は胸中でその名を反芻した。書庫のグリモアに、ハーゲンティという名はなかったと記憶している。一応脳内で照合はするが、宛てにしているわけではない。グリモアは一部を除いてほとんどがでたらめで構成されている。
「期限まで大人しくすることをお約束いたしますので、ひとつお願いが。待っている間、毎晩1グラスだけワインを楽しみたい。ですから、良いグラスを置いておいてください。この店にある一番素敵なワイングラスを、ね」
「かまわない。それであなたが大人しくすると言うなら」
「やはりあなたはお優しいですねぇ。これで私も有意義に過ごせそうだ。お互いに楽しい10日間を過ごしましょう。彼も、含めて」
 月明りは照らし出すものを選ばない。ハイスの皮をかぶっただけのこの薄汚い悪魔でさえ美しく、幻想的に演出する。でもそれだけだ。そう見せるだけ。
 早く夜が明けてくれればいいと思った。ザントマンの砂の薬効は、そこまで長く持続しない。ハイスの目が覚めたら、状況説明をして少し仮眠をとろう。そして1日でも早く、ワインを入手する。そう胸中で確認して私は夜の間中、冷めた視線と沈黙を保ち続けた。


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