赤と黒#4 Side A

 翌朝は、地下倉庫をひっかきまわすガラクタじみた音で目が覚めた。
「フレデリカ様ぁ~! ひとまずその上のっ。完全に斜めになっている瓶をなんとかすべきです! 割れたらもう二度と手に入れることはかないませんゆえっ! なにとぞ!」
 訂正。デブコガネムシの絶叫で完璧に目が冴えた。
 封印をひとつ解いた状態の僕は、昨夜も地下の完全封印部屋で夜を明かしている。夜中、僕の意識が眠りについた後はハーゲンティが好き放題に過ごしているようだ。ナイトテーブルには装飾の凝ったワイングラスが置かれている。
 今のところ不都合は感じない。持ち込んだブランケットとクッションは、案外寝心地が良くて寝覚めも悪くない。それらを部屋の端に寄せながら、僕は背伸びと欠伸を同時に繰り出した。
「フッレッデッリッカ様! 後生ですから! そちらを投げるのはおやめくださいっ。希少です! 手に入れる際はご苦労なさったでしょう!」
「朝から元気だなぁ……」
 麻袋のような重さのものをボスボスと一定の高さから投げる音。ジョセフの悲鳴。金物じみたものが軽快に落ちて、しばらく地面でまわる音。ジョセフの雄叫び。最終的に何かガラスが割れる音がして、直後にジョセフの今世紀最大の汚い嗚咽が轟いたところで、僕は倉庫に顔を出した。
「おはようございます。……この虫さん、は何をしてるんですか?」
 物が散乱した床に四つん這いになって、たぶん泣いているのだと思うが、ジョセフが打ち震えていた。こうしてみると確かに彼の翅はよく手入れがされていて、光沢が眩しい。
「何をだぁ!? 良いご身分だなぁ、このすっとこどっこいが! こちとら朝早くから貴様のっ! ワインの代わりになるブツを探してんだろうがよぉ。寝ぼけた面で私の視界を汚すんじゃねえええ」
 いや、朝から元気が良過ぎる。僕は寝ぼけてはいないが、さすがに寝起きでこの血管がはちきれんばかりのスーパーハイテンションにはついていけない。
 それよりも、脚立の天辺でふらふらしているフレデリカのほうが心配だ。
「フレデリカ」
「あぁ、おはよう、ハイス。探すついでに要らないものの整理もしようと思って……これも、ちょっと違うかな」
 フレデリカは手にしていたマグナムボトルを真下に放り投げた。
「フォウッ!」
 それをジョセフが謎の奇声を上げながらスーパーキャッチ。そのまま床をごろごろ転がって埃まみれになっていた。起き上がった彼の懐で、瓶は原形を留めている。状況はいまいち掴めていないが、これには拍手喝采だ。
「お見事。これだけ虫らしからぬ動きができるのに、ジョセフは本当に変異体じゃないの」
 ジョセフはよろよろと立ちあがる。肩(あくまでそれっぽい部位)で息をしている様は、やられてもやられても、何度でも立ち上がる歴戦の勇者みたいだ。おもむろにこちらに向き直ってくれたのだが、それは求めていない行為だった。こいつ、今日はエプロンをしていない!
「ほ・ん・と・う・に貴様は無知で浅はかで無礼千犯、救いようのない低能人間だなぁ! いいかあ、このエクセレントバディの源は正真正銘フレデリカ様の至高の魔力! ちょろちょろかさかさとフレデリカ様の周りをうろつくことしかできない害虫は、せめてその低能さが垂れ流れないように薄汚ぇ口を閉じてなぁ!」
(どっちがだよ……)
 僕は言われるまでもなく、口も目も閉じた。ジョセフの裸体は寝起きには刺激的すぎる。
「ジョセフ……」
 自分の世界に入り込んでいたフレデリカも、さすがにこのお粗末なやりとりには介入せざるを得なかったようだ。呆れかえりながら、ぐらつく脚立から下りてきた。
 とはいえ、床に散らばった魔道具や魔法薬、その材料の散乱具合を見るに、今回ばかりはジョセフが気の毒だ。フレデリカの考える要不要と、ジョセフの考えるそれが全く一致していないのだろう。
「とりあえず朝食にしませんか。腹が減ってはなんとやらですから」
 フレデリカの了承を得たので、無知で浅はかで──途中から何だったか忘れたが、救いようのない低能人間である僕が朝食作りを担当することになった。


「それは何……になる予定?」
 僕は鍋が沸騰するのを、ぼんやり待っていた。塩とビネガーしか入っていない具のないスープでも作っているように見えるなら、僕のイメージも相当望まぬ方向に固定化されつつあるということだ。
「ポーチドエッグでも作ろうかと」
「ぽーちど、えっぐ」
 フレデリカが呪文を唱えるみたいに神妙そうにオウム返しする。
「パンに載せても、サラダに載せても美味しいですよ。あー、チーズもはさみましょっか」
 具体的な食材と、その組み合わせに間違いがないことを察すると、フレデリカは安堵と期待を込めて何度も頷く。ジョセフみたく食卓で偉そうに待っていてもらって構わないのだが、フレデリカは僕が調理する風景に興味があるようだった。
「……坩界るかいって、この鍋の中みたいだと思いませんか」
 話をしておくには良い機会だと思った。僕は本来、こういう穏やかな時間を想定してブラックドアを開く仕組みについて説明するつもりだった。
「坩界では『形』は存在できない。坩界の秩序に合わせて、段階を追って『形』は失われます」
 僕は用意していた卵のうち、二個の殻をわざと乱雑に調理台にたたきつけた。片方は全ての殻を除去して水溶卵白を漉す。もう片方は、これまたわざと一部だけを剥いて、残りの殻はそのままにしておいた。
 鍋がタイミングよく沸騰したので、円を描くように混ぜる。とんぼを捕まえるときみたく、ゆっくりぐるぐると。僕が手を止めても、自動で渦を維持するようになったところで、先ほどの卵を二つとも投入した。
 フレデリカはポーチドエッグの調理過程にか、僕の話の中身にか、いずれにせよどちらかには興味を示してくれているようで、一心に鍋の中を見つめている。
「坩界はこの鍋の中のかんじに近いと思ってください。精神体として個別の存在でいられないこともないけど、明確な境界となる身体がないので、周囲の力や性質、坩界に溶けているいろんな何かと混ざって変異します。『形』がまだ残っている場合、それは歪になることが多い」
 卵白を漉しておいたほうの卵は塩味や酸味を取り込みながらポーチドエッグとして徐々に固まり始める。殻を残したままのほうは、ひび割れからはみ出した卵白だけが固まって、何とも言えない妙な形になった。こちらはただの、奇怪なゆで卵として処理するしかない。
「で、ここからが重要ポイントで。僕はですね? 何と掛け合わせて何秒坩界に漬け込んだら、どういう変異が起こるか実はだいたい把握しててですね?」
 そう、僕はただの可哀相な人間ではない。人知を超えた悪魔的能力を天から押し付けられた貧乏くじコンプリート人間としてではなく、それを意のままに操れるくらいには努力と研鑽を積んできた軌跡がある。
 それをこう、ほんのちょっとくらい自慢げに話しても罰は当たらないと思う。既に身に覚えのない、未開封の天罰を大量に抱えているのだから、これくらいは許される。
「色彩変化のタイミングは坩界の環境下で18秒間、それ以降は肥大化、矮小化、部位の増減を含む形質変化の時間、これが長くて21秒、ここまでで物質界に出せば何らかの『変異体』ですね」
 隠そうとしても高揚と興奮は、僕の口調を早口に仕立て上げてしまう。抜群のタイミングで、「鍋の世界」の変異体であるポーチドエッグも美しく完成。
 フレデリカの関心は、その完璧な色味と造形のほうに全て持っていかれている気がする。今までに見せたことのないような輝く瞳で、盛り付けられるポーチドエッグを追っていた。


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