「お気持ちは分かりますが、あまりにもひどいサービスだ。まさか取引相手に、瓶ごとワインを提供するおつもりですか?」
「調子に乗るな……! お前は、望みのものを手にすればハイスの身体から出ていくと言った!」
「いいえ、フレデリカ嬢。それはいささか恣意的ですねぇ。私は『望みが叶い、思う存分堪能できたら』と申したのですよ。契約内容の改ざんは信用を失いますよ?」
噛みしめた奥歯が嫌な音を立てていた。この期に及んで、こいつは何を言っているのか理解に苦しむ。理解したいと、微塵も思えない。
「フレデリカちょい一回落ち着こ。あれ悪魔? 喚んだの? っていうか、還したくてワイン欲しがってた?」
「ルルには関係ない。もう黙ってて」
「え~……だからぁ、ちょっと落ち着こって。あのワイン開けてみんなでパーリィー! ってのが悪魔くんのお望みなんでしょ? うち来てグラスに空ければいいじゃん」
「それは良い案です。どのみち、ここには長くはいられないのでは?」
悪魔が地面を指差すまで、私は満ちてきた潮のことも頭から抜け落ちていた。
私は馬鹿だ。すぐに頭に血を昇らせて、見せかけの冷静ささえ保てない。
選択肢はなかった。一刻も早く上層へ向かい、樹海地区へ、ルルのキャビンへと到達する必要がある。滲むように地面を覆っていく海水と、ハイスの身体の限界が私には連動しているように感じられた。近づいてくるさざ波を、その静かな音を恐ろしいと思ったのは生まれて初めてだ。
キャビンまで途方もない道のりに感じた。ルルだけが知っている「近道」を案内されなかったら、私はまた空中回廊の足場板を落下させたに違いない。「声出してくださいよ」と笑いながら引き揚げてくれる人は、今は眠りについているのだからヘマはできない。ハイスの目が覚めたとき、必要のない謝罪を口にさせたくないと思った。謝るのは私であるべきだ。
道中ハーゲンティは気持ち悪いほど従順で、身構えていた私がただ疲弊するだけに終わった。
ルルが準備してくれたのは、周囲の巨木をくりぬいて作ったバートックお手製のコップだった。それがガラス製でないことに、ワイングラスでないことにハーゲンティは不服そうだったが、私は構わずボトルの中身をすべて注ぎ分けた。早く終わらせたい一心で。
「あ~ひどい注ぎ方ですねぇ……せっかくの古酒もこれでは形無しだ」
「あらら、フレデリカは飲まないのー?」
「必要ない」
そんな約束をした覚えもない。今視界に映っている全てを、私はできる限り記憶に留めたくないのだ。そんな私の心中を見透かしたように、ハーゲンティは薄ら笑いを浮かべていた。
「随分嫌われたものですねぇ、残念」
ハーゲンティが器を手に取る。
「ですが、今日のことは記憶に残しておいたほうが懸命です。思い出したくなりますよ、きっと」
なるはずもない。分かりきったことを、むきになって言う必要はない。私はただ黙っていた。
色と香気を楽しむには向いていない木の器でも、注いだ液体が濁りきった血の色によく似ていることくらいは分かる。ハーゲンティはそこに映るハイスの姿を、満足そうに眺めていた。
「お気づきのとおり私の場合は道楽です。絶妙な塩梅での嫌がらせが楽しくてたまらない。競争率が激しいことを分かっていながら彼を器に選んだのも、そのほうが楽しそうだから、という理由です。期待通り、あなた方には大変楽しませていただきました」
私はただ、黙っていた。
「けれど坩堝の世界の住人には"悪魔"と呼ばれるにふさわしい、価値観の者のほうが多い。"絶望"が好きなものが多いのです。そしてあなたには既にとっておきが用意されている。──ああ、その顔、いいですね。とても、魅力的だ」
私はずっと黙っていただけだ。驚愕も恐怖も、持っていないものは顔に出るはずもない。ただ唯一、はじめから今までずっと、ぐずぐずとこびりついている圧倒的な不快感が感覚のすべてを塗り替えていくのは分かった。頭の先から爪先まで、泡立った血が駆け抜けていく。
ハーゲンティは器の淵に口をつけると、私の表情を肴にしてワインを飲んだ。一口、また一口、味わうというよりは惜しむように。
味の感想に興味はない。ルルを見ていれば、古代のワインが現代人の口に合わないことくらい分かる。私はお腹を壊したくないし、いかなる状況であれ悪魔と盃を交わしたいとは思わない。
「あなたはいずれきっと、今日この日を思い出す。そして、こう思う。ああ! あのときが一番幸せだった! ……って! 極上の絶望を前にして、あなたは今日の幸せに気づく。なんてドラマティック! 楽しみですねぇ! たまらないっ! 熟成されて深みを増すワインのようじゃありませんかっ」
恍惚の表情で身震いをするハーゲンティを、私は冷ややかな目で見ていた。嫌悪も憎悪も、さざ波のように引いていく。
この先絶望が用意されているとして、それが何度も訪れたとして、最後の最後にとっておきが提供されたとして、それは私にとって劇的な体験にはなり得ない。悪魔から見たら喜劇でも、他人から見たら悲劇でも、私には、結末を知っている小説を、もう一度読み返すだけの確認作業に近しいものだ。
私は今日を思い出さない。私の一番幸せだった日も、一番不幸だった日も、変わらずあの日のまま私と共にある。塗り替えられることはない。
「どうぞ"とっておき"を存分に、彼と分かち合ってお楽しみを。レディーフレデリカ」
ハーゲンティはからになった器を脇に置くと、自分の左胸に手を添えて恭しく一礼した。そのまま暫く静止していたが、何の前触れもなく前傾して倒れこんできた。私とルルで慌ててその身体を支える。
青白い顔で寝息を立てるハイスがいた。
私は全身の悪い空気を全て吐き出すように、深く、長い、安堵のため息をついていた。
#4 Side B
