「助かります」
僕だって、この魔術管理法違反すれすれ──たぶん抵触しているが、誤魔化すしかない──の案件にフレデリカを巻き込みたくはない。ブラックドアを意図的に開き(重罪)、頼まれたとはいえその中に人間をつっこみ(重罪)、坩界遊泳を楽しんでもらいました(重罪かつ意味不明)など、どこを切り取っても悪魔崇拝者の所業だ。
「ルル。今からやることも、さっきのことも、他言無用で。これが守れないなら、坩界には招待できない」
「はぁーい、了解でぇす。あーもうっ、そういう堅苦しいのいいからっ。やっちゃお! すぐ、今、やっちゃお!」
頭がおかしくなりそうだ。それでなくとも、断続的かつ強烈な頭痛と壊れた平衡感覚への対応で、僕の脳はフル稼働している。これ以上、全く共感できない世界観の少女に寄り添って、脳のリソースを割くわけにはいかない。だからすべてを無我の境地で受け入れる。
左手首の封印陣を擦って再びブラックドアを開いた。今度ははじめからルルがまるごと通れるサイズで。開くや否や、ルルは何の躊躇もなく一目散にドアの中へ突っ込んでいった。
僕は肝を冷やしてフレデリカを見た。彼女も面食らっていたが、僕の胸中を察して、何度も小刻みに頷いてくれていた。シールド魔法は間に合っているようだ。フレデリカには予備動作と呼べるものがないから、僕は未だに彼女の魔法発動のタイミングがよく分からない。
ともあれ安堵の溜息と共に、僕は拳を握って一旦ブラックドアを閉じた。
「なんなんだ、本当にあの子……。頭いたい」
初めて声に出して言った「頭いたい」には、僕の疲労の全てが集約されている。もう帰って、地下でないベッドにダイブして、誰にも邪魔されず心ゆくまで眠りたい。その切なる願望を現実のものにするには、もう少しだけ辛抱して集中力を保たねばならない。
十秒ほどで、僕もフレデリカも心労の限界を悟った。ブラックドアを開き直し、ルルを引きずり出す。散歩途中に謎の抵抗を始める犬みたいに、ルルは坩界に留まろうと力んでいた。
「い、い、加減にしろぉぉぉ」
フレデリカのシールド魔法は鉄壁だ。たぶん何時間と放置したところで、ルルの身体に影響はないだろう。しかし、それとこれとは話が別だ。
僕は嫌がるルルの腰にしがみついて、後方、物質世界側にとにかく引っ張った。この様子を通りすがり(いない)の誰に見咎められたところで、僕は完全完璧に弁明ができる。その証拠に、フレデリカは何の合図もしていないのに、僕の腰にしがみついて同じように引っ張ってくれた。
これは役得! ──だとかの話ではなく、早いところこいつを引きずりあげないと、本当にまずい。このサイズでブラックドアを開き続けるわけにはいかない。
僕はフレデリカと息を合わせて、いや、いきみ方を合わせてルルを坩界から引きずり出すことに全身全霊を注いだ。頭の片隅では、どこかの国の大きな根菜を引き抜く童話を思い出していた。
「だあっ!」
勢いと共に引っこ抜けた。その拍子に僕はルルから頭突きをもろにくらい、地面に倒れこむ。
「ハ……ハイス、大丈夫……?」
歯は折れていない。つまり比較的、大丈夫の部類。
フレデリカの優しい声かけに応えたかったのだが、僕は口元を押さえて何度か頷くだけが精一杯だった。
「最高ー! 今までの人生で一番ハッピー!」
(ああそう、それは良かったね……)
皮肉も口内でもごもご噛みしめるだけ。
「ね、次はシールド無しでやってよ。あたし人間辞めたいんだよね。変異体の奴らみたいに翅生やしたり、お尻に針つけたり、かっこよくなりたいの」
「やりませんよ……」
僕は人体の強制変異がどういう課程を経てどういう結果をもたらすか、知っている。想像するだに悍ましい。
「なんでよー! ケチー」
ルルはたぶん、心の底からそう思って言っているのだろう。ひとつも共感できなかった彼女の世界観に対して、僕は初めて同情という名の気持ちを寄せている。
彼女はきっと、誰からも理解されずに今日までやってきたのだろう。おそらくは父であるバートックからも。誰も彼女を理解しない。知ろうともしない。知ってしまっても、受け入れることができない。だから誰からも縛られないわけだけれど。それは自由で、ひたすらに孤独だ。
「変異体になって、僕とフレデリカに速攻討伐されたいってこと?」
「そういうことじゃないんだけどなー。ね、ね、いっかいだけ試してみない? なんならみんなでいっしょに……って。お~い、ハイス~! 聞いてる~?」
鼻息荒く力説するルルには申し訳ないが、この会話を続ける気力が僕にはもう残されていなかった。そしてもっと申し訳ないのがフレデリカに対してで。
「ハイス、待って! もう少し──」
──最後に、フレデリカは何と言ったのだろう。もう少し頑張って? ──だとすると、僕には謝るほかに術がない。
意識を失ってしまったらどうなるか、考えなくても分かっていた。完全封印空間でも何でもないこの場所で、悪魔に身体を明け渡すことになる。そしてその応対を、フレデリカ一人に丸投げすることになる。分かっていたのに。
ふがいない。そう思ったところで、もうフレデリカの声もルルの声も僕には聞こえなくなっていた。
僕は意識を閉じる。次に目覚めたとき、その場所が暗闇の世界でないことを祈りながら。
Side B:Frederica
恐れていたことが実際になってしまった。ハイスはいつ倒れてもおかしくない状態で、それを知りながらここまで無理をさせたのは私の責任だ。
「ハイスー。ここで寝たら海の底に沈むよー」
「ルル、いいから。少し離れて」
ルルは呑気だ。蟻の行列でも観察しているかのように、そのあたりに落ちていた木の棒で動かなくなったハイスの身体をつつき始める。私は力づくでルルを引きずって、倒れたハイスから距離をとった。
簡易の封印陣はすぐに描ける。でもそれが、何のしがらみもない状態の、受肉した悪魔ハーゲンティにどれほど意味があるのかは未知数だ。ルルを先に離脱させるべきか、迷っている間にハイスは上半身を起こして大きく伸びをしてみせた。
「ああ、素晴らしい目覚めだ。夜でもなく、地下でもない。やはり目覚めというのはこうあるべきだ。光に満ち満ちた美しい世界で新しい自分を実感する。そうでしょう? フレデリカ嬢」
「うっわ。どしたんハイス……急に詩人になるじゃん。頭打った? あ、打ってたかも……っ」
状況を理解しようとも馴染もうともしてくれないルルが、私には煩わしくて仕方がなかった。ルルにこの場面を見られてしまったことも痛恨の極みだし、そもそもの元凶は、だとかを考え始めると、私は彼女に相当に腹を立てている自分に気づく。
「注文したワインは、準備できましたか」
「そこにある」
先刻からずっと、それはハイスの傍らに転がっている。ドワーフ紀後期に見られる独特な細身のワインボトル。
ハイスは──彼の身体の主導権を奪ったハーゲンティは、私の視線の先を一瞥し、大仰に肩を竦めて見せた。
#4 Side A/B
