Side A:Hyth
世界が潤って見える。色づいてだとか鮮やかにだとか、表現はいろいろあると思うけれど、僕の場合はもっと瑞々しい、美しいだけでない豊かさに満ちていた。一体目の悪魔が坩堝の世界に還った──それはつまり自分の意思に反して誰かに身体を好き勝手に使われないということであり、常に最悪を想定して神経をすり減らす必要もないということである。何より夜はベッドで大の字になって寝られる。地下に差し込む、申し訳程度の朝日ではなく、カーテンを全開にするだけで好きだなけ日光浴ができる。こういう日々の積み重ねが心と体の健康というやつを構成していたのだと、僕は改めて実感しているところだ。
生憎と今日は小雨が降っていて、湿度は高めではある。人によっては嫌気がさす天気。案の定客足も遠のいているが、今の僕にとってはこの雨も、静かで穏やかで癒しの効果をもたらす音楽みたいなものだった。
朝食後は店のカウンターにのんびり腰かけて、店番をしながら新聞を流し読む。これがここ最近の日課だ。店には早朝にエルドラ地区のローカル紙が配達される。フレデリカがもともと定期購読──読まずに勝手口に積むだけだから、定期「購入」していたものだ。それとは別に、フレデリカに頼んで中央紙をとってもらうことにした。僕が持っている記憶と知識の答え合わせも兼ねて、最新の情報を得るにも効率の良い手段だと思う。
「都会は物騒だなぁ……」
当たり前の感想を僕はしみじみと独り言つ。
中央紙の一面を飾るのは決まって、連続殺人事件だとか強盗事件だとかの、およそ日常とはかけ離れた世界だ。人がちょっと集まるだけで、どうしてこうも人の世ならぬ事件が多発してしまうのだろう。ここ、エルドラ地区も、対岸の火事を決め込んでいて良いわけではない。都会とは違うが、歴史的価値の高い観光地だ。定住人口はそうでもなくても、交流人口は時期によっては爆発的に増える。商売人としては、そこをうまく利用したいところでもあるのだが。
「気になるニュースでもあった?」
フレデリカがハーブティーのポットを持って、キッチンから出てきた。これは最近のフレデリカの日課。朝食後、片づけを終えたらこうやって僕のところへやってきて、特製のハーブティーを淹れてくれる。説明をここで意図的に切れば、微笑ましく幸せな光景だ。
僕は注がれる琥珀色の液体を固唾をのんで見守る。今日はそう、琥珀色だ。いけるかもしれない。
「そうですね、中央は相変わらず事件が多いなって。殺人に、詐欺に、墓暴きなんてのも」
「墓暴き?」
「暴かれて、特に何も被害はなく元に戻されているそうです。ただ数が多いですよね、一週間で十五件」
僕は該当の記事を指しながら、フレデリカへ新聞を渡した。
「暴かれるだけで十分冒涜的」
「それはまあ、そうですね」
フレデリカが記事に興味を示して視線を逸らした今がチャンスだ。今しかない。
僕は鼻をつまんで、用意されたハーブティーを一気に喉に流し込んだ。舌には極力触れさせてはいけない。失敗するとこの後数時間、味覚が死亡する。カップを空にしたら、無造作に置いてじっと耐える。心身の末端まで広がる、世にも恐ろしい不味さに。
「今日はどうだった?」
「……うん、はい……。やっぱりちょっと飲みやすさが……足りないかなって」
一生懸命我慢しないと涙が出そうになるレベル、とは死んでも言えない。ここは言葉を濁すべきだ。これでも随分マシになったのだから、そこは評価しなければならない。
フレデリカはハーゲンティの送還に成功した後、こうして毎朝僕に「鉄分たっぷり滋養強壮ハーブティー」を飲ませてくる。割と無理やり。いろいろと面倒なのは、それが抜群に効果があることと、死ぬほどまずいという両極端な性質を持ち合わせている点だ。
おかげで僕は数日で体調を元に戻せたが、毎朝吐くか、泣くか、どちらかの醜態を晒している。どうせひどい目に遭うなら、このハーブティーを何とか売り物レベルに格上げできないかと二人で相談した結果、実践しているのがこの毎朝の地獄の試飲会というわけだ。
「及第点」
「──ではないです。すみません、まずいです。すごく」
言わせないでくれ、と僕は胸中で嘆く。耐えた不味さと選んだ言葉が水の泡になった。こうなると口内の謎の痺れも誤魔化している意味はないから、僕は口呼吸を繰り返して状態復帰に努めることにした。
ポットが冷めないうちに、キッチンの片づけに勤しむジョセフを呼びつける。残ったハーブティーは最終的に彼が飲み干してくれるからだ。人間的味覚というものを持ち合わせていないうえ「フレデリカが試行錯誤して手ずから淹れた」という付加価値があるものだから、彼はいつも喜び勇んで処分役をこなしてくれる。
「本日のお茶も満足度が高いっ。色も香りも一級品ですな! さすがフレデリカ様!」
とかいう見当はずれのべた褒めで以て、フレデリカの創作意欲を再燃させるまでが、僕らの日課である。厄介極まりない、と思いつつも、僕はこの時間が嫌いではない。
「体調はどう」
「ほとんど元通りです。何なら前よりみなぎってるくらい」
「だったら、良かった。ハイスが大丈夫ならそろそろ次の悪魔を送還する準備をしようと思うんだけど」
ということは、またしばらくは地下暮らしだ。不満なわけではない。今の、何の憂いもない日々が期限付きであることは分かりきっていたことだ。残数の決まった平穏を、噛みしめて過ごそうと思う。
「わかりました。僕の方は問題ありません。次はもう少し友好的な悪魔だったら助かるんですけどね」
「悪魔に友好的なのなんていない」
「うわぁ……」
僕の隣で二杯目の激まずハーブティーを堪能しているジョセフへ、僕は憐憫の眼差しを向けるしかなかった。こうもはっきり、面と向かって性質を否定されるのは流石に可哀相だ。
「? 何故こっちを見る。私は誰がどう見ても気高く貴い精霊の類だろうが、ボケカスが」
「あー、はいはい。そういう謎の区分けね。……どっちも同じだと思うんだけどなぁ。みんな坩界在住の精神体。職能と性格に良し悪しはあるとは思うけど、悪魔とか精霊とか、わざわざ区別するほどじゃないというか」
「はあああああ!? 上等だゴルァア! 悪魔のバラエティーパックは貴様のほうだろうがぁ! 表出ろ、ギッタギタにのして格の違いを見せつけてくれるわ!」
「いや、ごめんって。今のは確かに言い方が悪かった」
ジョセフが怒るのも無理はない。彼は、物質界で「精霊」と呼ばれるための条件をすべてきっちりクリアしている類い稀な精神体だ。小動物や虫を器とし、自らの職能を明らかにしたうえで魔術管理局運営のギルドに登録、真っ当な魔術師と真っ当な契約を結び、物質界の法に基づいて勤労し、勤勉に生活をする。僕に対する暴言の数々に目をつぶれば、ジョセフは理想的、模範的な「精霊」だろう。そういう精霊と契約している魔術師は、自ずと周囲からの評価も高まる。ジョセフがフレデリカに、そしてこの店にもたらしている利益は、実は計り知れないものだ。
僕はジョセフを貶めたかったわけではなく(今回ばかりは)、条件をひとつでも満たさない善良な精神体までもが、十把一からげに「悪魔」呼ばわりされることに疑問を持っているだけだ。
「区分の基準が、人間の都合に寄りすぎているって話。実際いるよね? ギルドに登録があるだけのザ・悪魔~みたいな精霊さん。その逆も然りってこと。ジョセフが名実ともに"精霊"だってことを否定するつもりはないんだけど、僕はその区分自体がまあまあ空虚だなと思ってるだけ。人間だって、同じだし」
定められた法をきっちり守っていれば善人というわけでもあるまいし。可視化された善悪の基準が、僕にはどうにも受け付けられない。でも誰の目にも分かりやすい区分というものが、自分たちとは異なる存在を、ひとまず理解するために効果的であることは分かる。だから普段は、この形骸化された線引きにいちいち異を唱えたりしないのだが、今日に限っては、僕はわざわざ間の悪い相手を選んで面倒な主張をしてしまったようだ。
「それでも……たとえ自分たちの都合による区分けだとしても、私にはあると思えてならない。絶対的な悪や……悪意が」
ご紹介します、こちら泣く子も黙る「悪魔大大大嫌い☆ハイレベル魔術師」のフレデリカさん。改めて確認するまでもない、彼女は悪魔と精霊を既存の基準でがっちり区切っているタイプだ。そうでないと悪魔嫌いを謳いながらジョセフを囲うことはしないだろう。
#5 Side A
