六畳半コスモ

其の九 成田荘、春の訪れ

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 季節がまためぐっていく。隣家から成田荘の庭に少しはみ出している紅葉がまんべんなく色づいたかと思うと、そうこうしている内に葉は落ち、道行く人々が白い息を吐くようになった。クリスマスだとか正月だとかの行事が瞬く間に過ぎ去る。全ての行事が、朔一にとってはカウントダウンのようであった。年越しにはクラスの仲間内で寄り集まって"決起集会"という名目のだらだら会合を催したが、センター試験までの日数を数えた瞬間全員が悶絶、全員神を脅す勢いで賽銭を投げ熱心にお参りをしたのだった。

 
「朔ちゃん、お弁当! 受験票持った? 消しゴム入れた? 電卓は?」
「いや、電卓は見つかったら退場だから」
玄関口で靴紐を結びながらやたら冷静にツッコミを入れる朔一、モエから渡された巨大な弁当を詰め込んでショルダーバッグを閉めた。
 本日カウントダウンはゼロになった。決戦のときが刻一刻と迫ろうとしている。朔一の体調はだいたい80パーセント良好だ。残りの20パーセントの不足は、昨夜無理やり食べさせられた大盛りカツ丼二杯のせいで胃がもたれていることが要因だ。 
「それとこれ。大事なもの渡すの忘れてた」
モエの手の中に包まれているもの。電卓、にしてはかなり小さい。しかし――
「おまもり?」
にしてはまたもや巨大すぎる。そして見覚えのありすぎるデザインだ。手のひらサイズの臙脂色の布、中央に「学業成就・交通安全・合格祈願」と刺繍されてある。
「朔一くんには過ぎた代物かもしれないが、そういうのはあるにこしたことないだろうと思ってね」
チャンが顔を真っ赤にしながらぶっきらぼうに鼻を鳴らす。当たり前だが手作りだった。少しいびつな刺繍が笑いを誘う、が「合格」のあたりの糸がやたらにほつれているのがどうにも気になった。笑いを上回って一抹の不安がよぎる。
「みんなで作ったのよ、これで合格間違いなしでしょ」
「だといいけど。さんきゅーっ」
そうだ、ほつれていようがただれていようが合格してしまえばいいのだ。気を取り直して三位一体守り(成田荘バージョン)を鞄に詰め込む。いざ出陣、というところでまた野太い声に呼び止められた。振り返った瞬間、コウゾウが抱えているものに目眩を覚えてよろめいた。
「朔一、こいつも持って行け。みんなで作ったぞ」
規則性だとか統一性だとかを微塵も兼ね備えていない、究極に自由な千羽鶴が贈呈される。 
 色どころか折り紙の大きささえ揃えられていない。大きい上によれよれなのはおそらくコウゾウ作の鶴だろう、それらを誤魔化すように垂れ幕がつけられておりスペース一杯に「合格祈願!!」と書かれてある。誇らしげに掲げられると突っ返すのも心が痛む、が義理人情で受け取るには危険な物品だ。
「ありがとう。そっちは気持ちだけ」
コウゾウの頭上に「がーん」と書いてあるのが目に見えるようだったが、ここは心を鬼にして見て見ぬふり、朔一は逃げるように玄関を出た。
「朔!」
今度は何だ――試験会場に到着する前から疲労困憊の表情で朔一が再度振り向く。イスズは何も持っていない。いつもの屈託のない満面の笑顔で立っていた。
「がんばって! 私もね、画できたから。試験が終わったら見に来て!」
朔一にとって、それは見送りにはもってこいの言葉だった。イスズにつられて思わず笑顔がこぼれる。
「終わったらまっさきに見に行くよ」
イスズが大きく頷いて手を振る。盛大な見送りを受けて朔一は胸を張って試験会場へ足を進めた。
「いってきます!」


 余談ではあるが、その後フリーダム千羽鶴は喜一の全快を祈って彼の病室に飾られることになった。開け放した窓から爽やかな風がそよぐ度、千羽の鶴がかたまってくるくる回る。そしてその都度嫌味のように大きく書かれた「合格祈願!!」の垂れ幕が喜一の視界をかすめた。
「朔の使い回し……」
喜一はがっくりと肩を落とす。それから不器用な宇宙人たちが、孫のためにひとつひとつ鶴を折る様を想像して笑いを吹き出した。


 展覧会も画廊も、朔一が想像していたよりもずっと規模の大きなものだった。イスズが教えているらしい子どもたちの自由で心和む絵から、一般公募により選出されたレベルの高い風景画、人物画、そして画廊を運営する講師たちの作品、画に興味はなくても見応えは十分にあった。客入りもまずまずらしく、その盛況ぶりに圧倒されながら朔一も展示品の中を歩く。
「だいたいなんで僕らまで来なきゃならないんだ。誘われたのは朔一くんだけなんだろ」
来る途中に似たような台詞を三度ほどこぼしていたチャン、まだ飽き足りないらしい会場のど真ん中で誰がどう考えても今更な愚痴を漏らす。
「こういうのはみんなで来た方が楽しいじゃない。イスズも喜ぶってもんでしょ、何よ。ほんと友達甲斐のない奴ね」
「そ、そういう意味で言ったんじゃないだろ! このメンバーでぞろぞろ来なくてもいいんじゃないかっていう話で……」
「あーもう、うるさい……。二人とも黙って見ろよ、ほんと公共性がないな」
確かに成田荘の連中を連れてきたのは軽率だったかもしれない、モエとチャンは暇を見つけてはくだらないことで声を荒らげるし、コウゾウは気にいった画を見つけては石のようにそこから動かない。定期的に後ろを確認しないとすぐに全員好き放題動き始める、気分は完全に幼稚園児の引率者だ。癒しの空間であるはずの画廊で神経をすり減らし、朔一は溜息まじりに奥へと進んだ。ゆっくり他の絵を楽しむ余裕すらない。それでも、思わず笑ってしまうような落書きめいた作品や芸術は爆発だと言わんばかりの形にとらわれない色使いなどを視界に入れると無意識に笑みがもれた。
「ところでさ、朔一くん」
笑みがもれたところでまたチャンが不躾に話しかけてくる。うんざり顔で応答しようとした矢先、チャンの意を決したような神妙な表情に目に入った。
「その……どうだったんだ結果は。今日だったろう? 発表」
チャンの後ろでモエとコウゾウが高速で頷いている。おそらくチャンはジャンケンかあみだくじに負けてこの役をやらされているのだろう。
「あーうん。まあ、後で言うよ」
「何だよ、駄目だったのか? 気になるだろう? 落ちたなら落ちたで──」
「チャンポン、バカ!」
「モエ、口を塞げっ」
(ほんとにこの人たちは……)
チャンには可哀そうだが、朔一は敢えてこの場ではお茶を濁すことにした。物事には順序がある。今はイスズの〝結果〟を見るときだ。自分の結果はその後でも遅くはない。
 チャンに非難が集中している間に講師たちの展示品コーナーに辿りつく。目当てのイスズの画は一番手前にあった。両手を広げても届かないくらいの大きさのカンバスに、一目でイスズのものと分かる独特で美しい色使い、虹でも描いたのかというほど煌めいて見えた。
 正面に立って、すぐに虹ではないことに気付く。チャンが隣で驚きのあまり咽せかえった。
「あらやだー。こういうこと?」
モエがわざとらしく声のトーンをあげる。
「だからみんなで来る必要なんかないって言ったんだ。言っておくが誘ったのは朔一くんだからな」
その通り、否定の余地はない。しかし朔一はその自らの軽率さを果てしなく後悔していた。 
 この状況になると連中を引き連れてきたのは今世紀最大の大失敗だったと言ってもいい。過去に戻れるなら今朝に戻って家を出るあたりから是非やりなおしたいところだった。
 カンバスの中に、ユニホーム姿の哲がいた。哲だと分かるのは、キャッチャーとしてこちらに背を向けて座っている体勢と背番号からだ。そして画面中央でフルスイングしているのが我らが成田荘の管理人、成田朔一選手である。
「かっこいい三振だな」
「バカね、よく見なさいよホームランでしょ。何これ、イスズの想像?」
言いたい放題だ、本当にこの二人はこういうときだけ抜群に気が合う。イスズがあの日見た夏の終わりの高い空は、目の覚めるような青色に塗られていた。
「朔、結果、どうだった?」
 背後でイスズの声がした。おそらくはまだモエとチャンはごちゃごちゃ何か言い合いをしているのだろうし、コウゾウも何か感想を述べたはずだ。更に周りには結構な数の一般客がいるし、彼らはあれこれ批評をしながら観覧している。それでもその瞬間、朔一の耳にはイスズの声だけがやけに鮮明に響いた。振り向こうかどうか少しだけ悩んでやめておいた。
「受かったよ。春から、大学生」
このざわつきの中で、自分の声は同じように鮮明に響いただろうか。確認したかったが、それもやめておくことにする。
「は? 朔ちゃん今さらっと何て言ったの?」
「春から、浪人生、だそうだ」
「ええ? 嘘! 何、落っこっちゃったの?」
「二人とも静かにしないか……」
チャンの報復か無駄な誤解が広がりつつあるようだがそんなことは取るに足らないことだ、物事には順序がある。今はとりあえずイスズに伝わっていればそれでいい。やはりそれだけは確認しておこうと少しだけ視線を向けた。
 彼女はただ、満面の笑みで朔一を見ていた。
「おめでとう、朔」
朔一はそれに対してうんともすんとも応えなかった。代わりにもう一度顔を上げてカンバスを見る。そこに描かれた自分を見る。吸いこまれそうな青空を、見る。
 イスズの目を通して世界を見ると心が動く、その感覚をそのまま伝えてくれるのが彼女の画だ。しかし朔一はものの数秒間でイスズの世界から目を離す。清掃の行き届いた画廊の床ばかりを見ることになった。
「いい画だな」
コウゾウが隣で静かに呟いた。
「……うん」
 朔一がやっとのことで返した反応はそれが精一杯で、後はひたすら床に反射した耳まで真っ赤な自分を眺めているしかなかった。

 画のタイトルは『ひとめぼれ』――朔一が放った一発がイスズの描いた美しい空で一番星のよう輝いていた。

お わ り 

 

      
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