六畳半コスモ

其の八 王子、襲来す

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 こうしてまた、いつもの賑やかさが成田荘に舞い戻り、朔一の単調な日常も取り返された。日中は学校へ、夕方まで講習を受けることもあれば早くに帰宅することもあったがそのときは自室にこもって夜遅くまで机に向かう。絵に描いたような真面目な受験生生活であった。夕方に帰宅したときは大抵モエの自慢の手料理がキッチンで湯気をたてて待っていてくれる。その日も玄関手前まで漂ってきたシチューの芳しい香りに朔一は胸を躍らせた。
「ただい──」
「放せ! 邪魔をするなぁぁ!」
 ガチャーン! ──自らの正当な帰宅の挨拶にかぶさってきた悪役じみた奇声とお粗末な破壊音に、朔一は半開きの引き戸を無言で閉めた。そこに迷いはない。この扉は開けてはいけない扉に違いない。
「こいつを殺して俺も死ぬっ!」
扉を閉めても大音量で外に漏れるコウゾウの声、朔一は今度もやはり迷いなく「開けてはいけない扉」を開けた。この時点で先ほどのモノローグは訂正されなければならない。これこのようにしてまた、常識外れの騒がしさが成田荘に舞い戻ってしまった。
 状況は見なくてもあらかた想像がつく。百聞は一見に如かず、そして一見よりも経験だ。
「コウゾウさん、落ち着いて! チャンポンが何とかするから!」
「だからなんで僕なんだよ! 朔一くんは! 肝心なときにいつも帰りが遅いな、彼は!」
「あ、朔。おかえりー」
 絶叫と轟音は開け放されたコウゾウの部屋が発信源だった。廊下に隠れながら成り行きを見守っていたイスズがようやく朔一の帰宅に気づいてくれる。彼女の背中の向こう側に広がる光景はいつか見た地獄絵図と酷似していた。
「モエー! 放せと言ってるだろう、弾き飛ばすぞ!」
大トカゲが六畳半の狭い室内で、立派な尾を振りまわして暴れている。それを羽交い絞めにして何とか制している銀メッキの宇宙人、そして部屋の片隅に深緑色のどろべちゃ星人が狼狽して意味もなく右往左往している。
「帰ってきたらこんなかんじで」
一人人型を保っているイスズがドア越しに室内を覗き込んだ。
「で、原因は」
「あれかなあ?」
イスズが指さしたのはチャンがまごついている隅の対角線上、つまりは部屋の奥の方に黒い物体が我が物顔で居座っている。遠目からでもそれは朔一の手のひら半分くらいの大きさであることが分かる。確かに規格外サイズではある、目にした朔一もあまりの大きさに一瞬たじろいだ。もうすっかり秋だなどと安心した頃を見計らっての襲撃、更にこの巨体をもってすれば皆の恐怖心が最高潮に達するのも致し方ないように思われた。
「朔ちゃ~んっ。おかえり早々悪いんだけど何とかして~」
「朔一くん、遅いよ! 君ってやつは肝心なときにいつも……」
チャンの小言を無視して朔一はイスズに殺虫剤を持ってくるように指示を出した。何の変哲もない常識人の指示だ、これでいい。季節外れだろうが規格外サイズであろうがゴキブリはゴキブリだ。丸めた強力新聞紙ならまだしもビル一棟破壊できそうな強靭な尻尾を室内で振り回す必要は微塵もない。原型に戻ってまで懸命にコウゾウ制しているモエを早く助けてやらねばならない。
「朔、これっ」
イスズから受け取った殺虫スプレーを構える。そして思い切りよく噴射。
「わぁぁぁぁ! 何するんだ!」
「あ、ごめん。つい」
つい無意識に原型のチャンに向かって殺虫スプレーを吹きかける朔一。大暴れする大トカゲ、に振り回される銀メッキ星人、をあざ笑うかのように堂々と構える黒いアレ、の対角線上で何故かどさくさに紛れて原型化しているどろべちゃ星人、上記から真っ先に抹消すべきものを本能で判断した結果がこれだった。
「つい、じゃないだろう! 人に向けないでくださいって書いてあるだろ、子どもか君は!」
(宇宙人への注意書きはないけどな)
重病人のように噎せかえるチャンを背にして正しい標的に発射口を向け直した。
「遠いなあ。だいたいあれ生きてんの? さっきから全然動かないんだけど」
距離を詰めようと、もみ合う宇宙人どもの横を素通りする。
「よせ朔一! お得意の死んだふりだ!」
「そうよ、そいつ窓から飛んで入ってきたんだからっ」
「どっちにしろ瀕死なんじゃない? もうそんなに蒸し暑くもないわけだし……」
スプレー缶を上下に軽快に振りながら黒い物体のごく近くまで寄る。その場にしゃがみ込んでも標的は動こうとしない。とりあえず試しに発射ノズルに手をかけた瞬間、
「あ、これ」
「動いた?」
「それ見ろ! やはり叩き潰す!」
黒い物体の何百倍はあろうかという巨体同士で人一怯えるコウゾウとモエ。二人を無視して朔一は「それ」を手のひらに乗せた。振り返るなり今日最大の悲鳴が轟いたことは言うまでもない。
「ぎゃあぁぁ! 朔一ぃぃ、こっちに来るな! お前も悪魔の手先だったのかあ!」
コウゾウはもはや言動が支離滅裂の域に達している。その彼を懸命に抑えつけていたモエは、既に彼を見捨てて入り口ドア付近まで退避していた。
「朔ちゃん、いい子だから、それは捨てなさい。ね?」
「うわ、正気か。ゴキブリだぞ」
問題の黒いアレを手のひらに乗せたまま菩薩ポーズでひきつった笑みを浮かべる朔一。連中は一貫して錯乱しているとはいえ、あまりにも言われたい放題だ。
「よく見ろよ……何がゴキブリだ」
よく見る──それはつまり、近寄って己の眼でしかと現実を受け止めることを意味する。そんな恐ろしい真似がコウゾウにできるはずもなく、何の拷問かと言わんばかりに全力でかぶりを振っていた。無意識のせいで尾(凶器)がいちいち揺れる。代わって、避難していたイスズが室内に入った、
「あれ? ……カブトムシ……」
イスズが口にした単語に皆硬直せざるを得なかった。
「カブト……ムシ……だと」
覇気のないつぶやきを漏らすコウゾウの横で、モエが咳払いで諸々をごまかそうとしていた。
「な、しかも結構立派。弱って動けなかったんだよ。なんか野菜ない?」
「キッチンにさっき使ったあまりがあるよー」
イスズが意気揚々と廊下を小走りで横切る。その後を、やはり菩薩ポーズのままゆっくり朔一が追った。条件反射で後ずさる原型宇宙人たち、今となっては究極に哀れであり腹の立つ光景だ。
 モエだけが恐る恐る朔一の手の中を覗き込んだ。都会ではあまり見ない立派な角を持った雄のカブトムシだ。
「確かに立派ね……」
「分かったら解散してとっとと人型に戻ってくれよ。コウゾウさん、部屋片付けてくださいね。チャンポンはこれ、戻しといて」
人間でいうところの「手」がどのあたりの部位なのかさっぱり分からないため、手渡すのを諦め殺虫スプレーをチャンポンの前に置いた。チャンはどこからともなく「手」らしきものを身体から出してスプレーを片付けに倉庫へ、モエもストレッチをしながら二階の自室へ戻っていく。
 一件落着かと、朔一が安堵と疲労の入り混じった特大のため息をついた。そして、それはその静寂を待ちわびていたように第一声を発した。
「恩に着るぞ、少年」
ごまかしようのないほどはっきりと──朔一は無意味だとは思いながらイスズとコウゾウへゆっくり視線を傾けた。二人はスローモーションでかぶりを振っている。しばらく皆で感慨もなく見つめあった後改めて事実を認識しようと朔一は自らの手のひらに再び焦点を戻す。
「喜一の孫はさすが良識のある人間のようだ。ところで何か食べるものはないか、体力がなくては人型を形成できぬ」
 声はやはり朔一の手の中から発せられた。日本語をしゃべるカブトムシ、できることならその程度で片付けてしまいたいところだったが、カブトムシ(らしき姿の全く別の生物)が発したいくつかの特殊な単語がその決着を許さなかった。とにもかくにもこれについて朔一とコウゾウがとるべき行動はひとつだ。
「ぎゃああああああああぁ! 喋ったぁぁぁ!」」
「出た! 捨てろ、朔一! 窓から放り投げればまだ間に合う!」
 管理人本人が本日の悲鳴記録をあっけなく更新する。コウゾウに言われるまでもなく、朔一は咄嗟にその黒い生物を畳の上に放り投げていた。僅かな余力で収納していた羽をばたつかせると、カブトムシ星人(仮)は鮮やかに着地する。
「無礼な!」
そして偉そうに、なおかつ苛立ちを顕わにして地団駄を踏んだ。二人の悲鳴を聞きつけて、既に冷静を取り戻していたモエとチャンが駆け付ける。コウゾウの部屋の入り口付近に部屋の主と朔一とイスズが逃げ腰で凝り固まっている。
「無礼はどっちだよ、不法侵入だぞ!」
壁に半身を潜めて強気な言葉を吐いてみても迫力はない。しかし居合わせたメンバーではこの朔一の姿勢が一番頼もしいものだった。コウゾウとイスズは控え目に同意を示して頷いているだけだ。
「確かに、君の言うことも一理ある。本来であれば玄関からきちんと訪問をすべきところをこのような礼を欠く形となってしまった。しかしそれもこれも長旅での疲労によるものだ。簡潔に言うぞ、何か食べるものを分けてもらえないか」
「謝ってる割にやたらに高圧的に見えるのは俺だけか……」
思いきり叫んで気が済んだのか徐々に落ち着きを取り戻しはじめた朔一。皆が見守る中、ひとり部屋の中央に戻りカブトムシ星人の、例の立派な角を摘みあげた。
「何をする無礼な! 私は王子なのだぞっ、王子を摘みあげる人間がどこにいるっ」
少なくとも地球には星の数ほどいることだろう、自称王子は宙ぶらりんのまま短い手足をばたつかせてもがいた。
「モエさん、台所のキュウリ切ってやって」
「む、かたじけない。喜一の孫よ、名は何という」
「……ほんとにいちいち上から目線だなあ。そっちが先に名乗れよ」
「しかたがない。私はプリンス・アルキメデス・ボガード・ワタナベン」
カブトムシは朔一につままれたまま相変わらず短い手足をばたつかせてもがいている。偉そうではあるが自己紹介を終えた彼に対しての皆の反応は、無に等しいものだった。とりわけ目の前でその名を耳にした朔一の「無」は完全なものだ。瞬きひとつしない。
「どうした。王子の私が名乗ったのだ、君たちも名乗るがいい」
朔一は遠巻きに状況を見守るだけの連中に助けを求めるように視線を送ったが、そのうち何人かは我関せずとばかりに露骨に明後日の方向に顔を背けた。それとは正反対にイスズは真剣な眼差しを返してくる。一泊置いて重々しく頷いた。「トップバッターどうぞ!」の合図なのだろう、悉く役に立たない住人たちに失望しながらも朔一は意を決して胸中そのままを言葉に変えた。
「成田朔一です。ワタナベさん」
誰かが生唾を呑む音がやけに鮮明に響いた。数秒かもっと短い刹那、成田荘全体の時が止まったかのように完全な静寂が訪れた。皆何かを思索している。口火を切ったのは〝ワタナベさん〟であった。
「……もう一度言うぞ。プリンス・アルキメデス・ボガ──」
「朔ちゃん、キュウリ切るからワタナベそのまま連れてきて」
「了解。ワタナベ、それ食ったらしゃきっと飛んで帰れよ」
各々の何かが腹落ちしたらしい、モエが抜群のタイミングで、その後を畳みかけるように朔一が続きカブトムシの訂正を遮った。
 彼の名はワタナベ、肩書まで律儀につけてやるとするならばワタナベ王子。地球上で生きていく上では時に真実より普遍が重要だ。無言の多数決で彼の名は「ワタナベ」に決定した。
 ワタナベに半ば占拠されていた一○四号室にようやく主が足を踏み入れる。自ら暴れて散らかしてしまった室内をコウゾウは無言で掃き始めた。手持無沙汰のチャンがキッチンへ続く廊下を目で追いながらそれを手伝う。
「気の毒に」
チャンがぽつりと呟いた。その一言が自室が戦場跡のように殺伐としたコウゾウに向けられたものだったのか、自らと同じく妙に座りのいい呼び名をつけられたカブトムシ王子に向けられたものだったのかは定かではない。

 キッチンではテーブルの上にいろいろな意味で一命をとりとめたワタナベが置物のように乗っている。小皿に無造作に並べたキュウリとナスを傍に置くと、這いつくばるようにして小皿の淵に身体を乗せた。そのままキュウリの輪切りを抱え込むようにひたすら果肉を貪っていた。こうして黙っていればどこからどう見ても立派なカブトムシである。
「はー。ほんとにお腹すいてへろへろだったのね。そんなに生のキュウリがうまいの」
モエが呆れにも似た感心を覚え席を陣取る。
「マヨネーズと一味とかトッピングした方がいいのかな」
モエの感慨に答えてイスズが突拍子もないようななくないような提案をする。それはそれである世代にはたまらない組み合わせだが、とりあえずカブトムシには相応しくない。そのうちに合流したチャンがまだ残る警戒心を隠そうともせず、食事中のワタナベとは離れた席に座った。
「野菜でいいのか? このラインナップって鈴虫じゃないか?」
「よく知ってんなー。いいんだよ、腹減ってんなら何でもうまいだろ」
「案外適当なんだな」
「俺にカブトムシに甲斐甲斐しくしてやる義理はない」
言うまでもなく宇宙人に甲斐甲斐しくしてやる義理もないのだが、今それを口にするとようやく訪れた平穏が無碍になる。あまつさえ夕食抜きなんて事態は避けたいものだ。身も蓋もない朔一の言い分に苦笑いをこぼしながらイスズがシチューを取り分けてくれる。食器が並べられていく中で最後にコウゾウがそそくさと席に着いた。それでもわざわざ椅子を移動させてチャンポンと同じくワタナベとは距離をとる。
「すまぬがキュウリのおかわりを頂きたい」
ワタナベはぺろりと皿を空にし、モエを見定めて給仕を催促した。頬づえをついて既にリラックスしきっていたモエはここぞとばかりに顰めつらを作って睨みを利かせた。
「調子に乗るんじゃないわよ、あんたは不法侵入者でお客さんでもなんでもないんだから。食べたらとっとと人型に戻るなりどっか飛んでくなりしてちょうだい」
(いいぞモエさん!)
男性陣三人が、各々勝手な理由で同じ感慨を抱いた。胸中でガッツポーズを繰り出していた彼らをよそに、モエは追加のキュウリを小皿に足している。
「で、あんた何しに地球に来たの? 聞くところによると喜一の知り合いみたいだけど」
「無論、喜一の見舞いだ。以前喜一から聞いていたのがこの成田荘の場所だけだったものだからここまで飛んできたんだが」
「病院ならここからすぐ近くよ。人型に戻れるなら案内するけど?」
「それは誠か。このような美味なキュウリを頂いた上道案内までしてくれるとは、君は私の臣下でもないのに素晴らしい女性だ。名を聞いておこう」
道案内の申し出はさておきキュウリのポイントは相当に高いらしい、思わぬ高評価にモエは苦笑いを返した。
「モエよ。どうするの、行くの」
「うむ。まだ日がある内に向かうとしよう。今人型に……」
「あ~、待った! 戻るんなら先に服準備してくれよ!」
モエ以外は皆まだ食事を始めたばかりだ。朔一も例外ではない。シチューをすすりながらワタナベ氏の裸体を拝むようなわけのわからないショータイムには参加したくない。朔一は食事の手をとめ慌ててワタナベを摘みあげた。
「放したまえ! 君は悉く失礼な奴だな!」
「この方が移動便利だろ? チャンポン、部屋借りるぞ」
「はあ? なんでまたわざわざ僕の部屋なんだ!」
わざわざも何もチャンの部屋はキッチンの真向かいだ。朔一は聞こえない振りでそのままチャンの部屋に押し入った。ワタナベを畳の上に放置すると押し入れから適当に服を選びぬく。背後でカブトムシから人型を形成している何とも言えない妙な気配があるがそのまま振り向くことはなかった。
「朔一くん、君ってやつはほんとに……」
チャンが食事を途中で止め占拠されつつある自室のドアを勢いよく開けた。そのまま背後でねちねちと細かいことに文句をつけてくるのかと思いきや、言いかけていた小言を呑みこんでそのまま静止する。朔一も訝しげに振り向いた。そしてチャンと同じく目を点にして棒立ちになった。
 そこに恐れていたようなとんでもなくグロテスクな光景は、とりあえず無かった。ワタナベは既に人型を形成していたし、これといって妙な動きも表情もしていない。部屋の中央で、素っ裸のまま仁王立ちしている光景は確かにいささかふざけているようではあるが今さら気に留めるほどの奇行ではない。それにも関わらず、事実こうしてチャンと朔一は人型のワタナベにくぎ付けだ。
「どうした。何か不自然か?」
顔を見合わせる。朔一は後ろ手に頭を掻き、チャンは咳払いしながらずれた眼鏡を押し上げた。
「不自然ではないが……」
「予想外だな」
 言いながらチャンの私服をいくつか手渡したがサイズは合わないだろう、朔一のジャージをわざわざ持ってきたとしても結果は同じだ。ワタナベの身長は百四十センチ程度、上靴とランドセルをオプションで加えれば完璧な小学生の完成だ。生憎成田荘にそのような小学生扮装グッズはない。もしあったとしたら持ち主には即刻退去して頂くところだ。しかし実際はランドセルを背負わせても近所の小学生には間違われることはないだろう。彼の髪は美しい金色のブロンドで成田荘備え付けの安物蛍光灯の光でさえも反射してまばゆく輝いていた。
 ワタナベは首を傾げながら黙って渡された服に袖を通したが案の定袖も丈も半分以上余っている。格別不愉快そうな素振りも見せず黙々と袖を折り返した。
「わっ。モエさん、ワタナベくんほんとに王子様っぽいよ~」
イスズが待ちかねたのかドアの隙間から頭だけを覗かせる。呼ばれたモエは生返事をしながらトーテムポールのようにやはり頭だけをイスズの上からねじこませる。
「……どうやったらさっきのアレがこうなんのよ……。確かにアレキサンダーーーってかんじね」
「アルキメデス・ボガード・ワタナベンだ」
「まあ、いいわ何でも。面会時間終わる前にさっさと行くわよ。朔ちゃん、私そのまま仕事に行くから玄関の鍵は閉めておいて」
「ああ、うん」
モエはてきぱきと支度を済ませると、ぶかぶかのチャンの服を着たワタナベ王子の手を引いて玄関を出て行った。後に残された者たちは、またもや茫然と立ち尽くし半開きの横引き扉を見つめているだけだ。
「職質されなきゃいいけどな……」
「そういう無くはない上に面倒な想像はよしてくれっ。ほら、もう用はないだろ。散った散った、しっしっ」
チャンはこれでもかと言わんばかりに口をへの字に曲げて覗き魔と化していたイスズと、部屋の中央に堂々と居座ろうとしている朔一を部屋から叩きだした。更にこれみよがしに音を立てて鍵を閉める。イスズが苦笑いするので朔一も合わせて肩を竦めて見せた。
「モエさんって面食いだったっけ?」
ドアの前から動かないままで朔一はイスズに向けて声をひそめた。
「どうかなあ。でもお金持ちは好きみたいだよ」
「チャンポン不利じゃないか。六畳半一間に住んでる貧乏苦学生じゃな……、思わぬ強力ライバル登場か」
「ワタナベくん、モエさんのこと気に入ってたみたいだしね」
「王子と眼鏡じゃな……」
呟いたところで寄りかかっていたドアが勢いよく引き開けられた。体勢を崩してよろめく朔一とイスズを交互に見やって眼鏡王子、いやチャンが青筋を浮かべていた。
「丸聞こえなんだよ! 何が強力ライバルだ……馬鹿馬鹿しいっ。」
チャンは思いきり歯茎を剥き出しにしてそれだけを言い放つと再び力任せにドアを閉めた。反動が建物自体を揺るがすように大きく響く。成田荘の壁はとんでもなく薄い。それは今さら誰もが知っていることで、朔一もその特性をうまく利用できるようになりつつあった。
 イスズと顔を見合わせて笑う。今度はチャンを怒らせないように二人で必死に声を殺した。

 その夜朔一は、眠る前に少しだけワタナベ王子のことを考えた。
──無論、喜一の見舞いだ──
それは彼個人にとって、もしくはカブトムシ星人にとって無論の項目なのだろう。それをモエは、やはり当然のように受け入れた。
「やっぱすげぇんだな……じいちゃん」
病院のベッドの上で、喜一はワタナベ王子と何を話したのだろう。彼の星でのいろいろな出来事を語りあうのだろうか、それとも地球の目玉観光地でも教えてやっているのだろうか。
「まあまた……会えるか……」
 寝返りをうちながら、今度喋るカブトムシが訪ねてきたときにはキュウリにマヨネーズと一味を添えて準備しておこうと思った。チャンとコウゾウは嫌がるかもしれない。今日の大立ち回りを思い出して、朔一は苦笑しながら器用に眠りにおちていった。

      
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