アルバ暦838年、水の月。
このところは雨が続く。朝、目が覚めたら既に雨音が聞こえていることもあるし、夜が更けてから思い出したように降り始めることもある。とにかく一日のどこかで必ずと言っていいほど雨が降っていた。
ナギとシグが橋の街ビフレストに滞在して四日が経つ。が、サギの捜索もファフニールの情報収集も、この天気のおかげで思うように捗らないのが現状だ。この日も夕方近くになってぽつぽつ降り始めたから、その段階で宿に戻ることにした。いや──ナギが「帰ろう」と言ったからか。ヘドロをぶちまけたような空を一瞥して、彼女は独り言のようにそう言った。行動の指針は基本的に彼女に任せてあるから、シグはただいつも通り「分かった」とだけ返した。
今日も収穫はない。進展もない。本来ならもっと粘るべきなのかもしれないが、今の状態で何をどう足掻いても結果は同じだろうという気もした。
結局、宿に辿り着く前に一雨降られ、最終的には二人して猛ダッシュした。なだれ込むように宿の扉をくぐると、主が労いと呆れの混ざったような笑みをこぼして出迎えてくれた。それぞれの部屋の鍵は両手に準備済み。滞在四日目ともなると、二人の行動パターンも読めてくるというわけだ。
「降られたね。しばらくはこういう天気だ、分かってるんだから一日くらい休めばいいのに」
「休暇に来てるわけじゃないんでね」
主が手渡してくれた鍵とタオルを受け取りながら、シグが悪態をつく。
「そうかい? 何でもいいから早くシャワー浴びておいで。そのままじゃニブル漬けだろう? 流しときゃ随分違う」
「そうかもね」
愛想の良い店主は今日も、経験論だか知恵袋だかの適当な知識を披露してくれる。あしらいながらもシグは胸中で同意を示していた。さっさとシャワーを浴びるという一点においては、否定する理由が見当たらない。
「温まったら下に降りてくるといい。特別にハーブティーでも御馳走しよう」
「だってさ。聞いてる? ナギ」
「ああ、うん。……私は遠慮しようかな。今日はこのまま休みたい」
「また調子悪いの」
「そういうわけじゃない。休めるときに休んでおこうかと思って。それだけ」
「……だってさ」
シグの無意味なパスを受けて、店主は大きく肩を竦めた。申し訳なさそうに手刀を切るナギ。無理をしているわけではなさそうだと判断して、シグもそれ以上深入りしないことにした。いや、すべきところなのか? 一瞬迷って立ち止まったときには、ナギは既に階段の踊り場を折り返していた。深入りすべきシーンだったとして、もはや手遅れだ。今の状況をアカツキが見ていたら特大の嘆息を発射してきたに違いない。想像に苛立って、シグの方が小さく嘆息した。
うわべの気遣いが何になる──結局はいつもの結論に達した。大丈夫かと訊いてかぶりを振る奴なんかそうそういない。仮に居たとして、ナギは十中八九そのタイプではない。無意味なやりとりをするつもりはシグの方にもない。だとしたら放っておくしかないじゃないか。正しい論理だと思うのに苛立ちが消えてくれないから、口内で小さく舌打ちが漏れた。
ナギの様子がおかしいのは、レーヴァテイン本部でシスイと二人きりで話をした後からだ。何か口実を作っては一人の時間を選ぶようになった。そこで何をするというわけでもない。ただぼんやりしていることの方が圧倒的に多い。二人で行動していても、とにかく上の空だ。それだけならまだ見てみぬふりができる。要はシグ自身が普段よりも神経を研ぎ澄ませておけばよいわけだから、対処法としては分かりやすい類だ。一番の問題はナギの食欲にある。驚くほど食べない。シグ以上にだ。単独で行動している時間の方が多いわけだから、把握していないところではそもそも食事を摂っているのかさえ怪しい。
(一度グラスハイムに戻ったほうがいいか……)
指針はナギ任せ、を決め込んでいたシグも、流石に提案というやつをしてみるかという気になった。グラスハイムに戻れば、アカツキの店に立ち寄るはずだ。アカツキとカリンの顔を見ればナギの気力も食欲も元通り──。
そこまで考えてかぶりを振った。即効性はあっても持続性がない。それに、この手のことで全面的にアカツキを当てにするのは、どうにも面白くなかった。
癖づいてしまった嘆息と共に階段を上がりきった先、部屋の扉を開けたままでナギがまだ廊下に立っていた。部屋の点検にやってきた整備士のように、入り口で繁々と自室の様子を観察している。
「……どうしたの」
「ああ、ごめん。明日の打ち合わせ、まだだったなと思って」
取ってつけたような返答。しかしそれを否定するような真似はやめておいた。
「いや、そんなの朝でいいでしょ。もういいからさっさとシャワー浴びて、さっさと寝ちゃってよ。……で、起きたらいい加減、通常運転に戻って。やりにくい」
言うつもりの無いことが思わず口をついて出た。ナギが息を呑む、その表情を見て、しまったと思ったが当然後の祭りである。
「……そうだね、シグの言うとおり」
「違う、言い方が悪かった。やりにくいとかじゃない」
「分かってる分かってる。訳が分からないのに一人でじめじめすんなって話よね? ここんとこ進展なくて、さすがの私もちょっとへこんでただけ。大丈夫、明日には戻る」
ナギの困ったような頬笑みは、シグの後悔を促進させるだけだった。彼女はいともあっさり禁句を口にする。その言葉を言わせないために知らないふりを通してきたのに、これで全てが水の泡だ。
シグは額を押さえて派手に嘆息した。
「だからごめんってば……。そこまであからさまに呆れなくてもいいでしょ」
「そうじゃない。これは、自分用」
最初から最後まで、ナギには面白いくらいこちらの意図が伝わらない。彼女の洞察力だとか推察力だとかは一体全体どうなっているのか、そういう類までまとめて鈍くなっているなら由々しき事態だ。
「もういい。ほんと、さっさと寝て。で、なんかあったら呼んで」
無意識なのか定型句なのか、シグはいつも必ず最後にその言葉を付け加える。そして今度こそ呆れかえって自室のドアノブを回した。
「了解。おやすみ」
部屋の奥へ消えて行くシグの背中に、ナギは苦笑交じりに応えた。ようやくナギも、開け放したままだったドアをくぐって一人きりの空間を確保する。
本来ならここで一息も二息もつきたいところだ。が、ナギは後ろ手にドアを閉めると先刻よりも一層険しい顔で室内を一瞥した。
説明が難しい類の違和感があった。朝この部屋を出たときと、空気が違う。この宿のルームクリーニングは滞在の場合一日置きだ。ナギの部屋は昨日済ませてあるから、明日の昼までは入らないようになっている。そも、そういう違和感ではない。
ナギは慎重に窓際まで進み、きっちりと閉じられたカーテンに隙間をつくると外の様子を伺った。眼下の街路に人気は無く、向かいの民家からの視線も無い。先刻より幾分弱まった雨がしつこく窓ガラスを伝って流れているだけだ。
(気のせい、か)
カーテンを元のようにしっかりと留め、薄暗いままの部屋を横切ってバスルームへ向かった。気のせいで片づけるには尚早だとは思うが、警戒しっぱなしではこちらが消耗するだけだ。ある程度隙は見せた上で、油断さえしなければいい。幸いバスルームには内鍵がついているから、何が起こったとしても十分な時間稼ぎはできる。そうと決めたら、まずは冷えた身体を温めてやらなければ。
バスタブに湯を張る間、ナギは鏡の前に立って、良くも悪くも変化の無い自分の身体を改めて点検した。必要以上に引き締まった、製材されたトネリコのような胴に、丸みを帯びた唯一の箇所とも言える乳房が二つ。豊満とは程遠いが形は綺麗な方だと勝手に思っている。食べても太らない体質なのか、食べた分しっかり消費しているのか、お腹周りは常に美しくくびれている。手足には細かい傷が多い。気をつけてはいるが、ニーベルングとの戦闘を繰り返してきて無傷でいられるはずもない。