細かいところに不満は無くは無いが、ここまでは概ね満足。いつもと変わりない。それから振り向きざまに背中を確認した。最近はこの過程が一番つらい。
「やっぱり残るよね……」
嘆いても仕方の無いことを、どうしても独りごちてしまう。サギとの戦闘で負った背中の裂傷は、破れた箇所を突貫工事で補正しました、と言わんばかりの有様で今に残っている。鏡に映る継ぎ接ぎの背中を覆い隠すように、低い位置で結ったサイドテールをほどいた。
扉に一瞬視線を移してから、シャワーのバルブを勢いよく捻った。濡らして、流れて、落ちていく。頭の天辺からつま先まで、冷えきった身体を温かな水が包んでいく。
(シグに心配はかけない)
目を閉じて、簡易の闇に身をゆだねる。そして呪文を唱えるように反芻した。
(明日はちゃんと朝食を摂って、雨だったら資料館を回る。晴れたら旧市街まで出て情報収集)
きちんと計画を立ててそれを忠実に実行すれば、それだけでも随分調子を戻せるはずだ。脳にそう言い聞かせながら、別のところではもっと強い否定的感情が生まれ、意識を侵食していくのを止められなかった。サギとの接触もない、ファフニールの正体も不明のまま──ビフレストの古くからの職人たちも、魔ガン“ファフニール”について持っている情報は、自分たちと大差ないものだった。古臭さだけは随一の街の図書館にも、目ぼしい記述は見当たらなかった。この上、何をどう足掻けば求める答えにたどり着く? ──そも、求めている答えとは何なのだろう。根本が不確かだ。
長毛の犬のように、力任せにかぶりを振った。肌にまとわり付いていた濡れた髪が、飛沫を散らして僅かにしなった。
「心配はかけない。しっかりして、ナギ」
聞き分けの悪い脳にも伝わるように口に出した。横目に鏡を見やって、自分の顔つきを確かめる。意識的に眉尻を上げた。そういう意識が足りなかったことに、今更ながらに気づいて自分が嫌になる。
シャワーの水を止めた。途端に静寂が空間を支配した。ナギの髪から、身体から、伝い落ちる雫の音すらも恐ろしく響いた。その静寂が警報の代わりを果たしてくれた。
(部屋に誰かいる……!)
違和感が急速に、そして歪に形づくられようとしている。息を潜めて、全神経を扉の向こうの気配に集中させた。脱ぎっぱなしたままの服の下に手を滑り込ませ、銃を抜き取った。
(ドアからじゃない。窓から……? 何か細工をされていた?)
この隙だらけの状況はナギがわざわざ設えたもので、それは言うまでもなく相手を誘い込むため、その尻尾を掴むための罠だった。が、ここまで大胆不敵に侵入してくるとは些か予想外でもあった。よほどの馬鹿か、自信家か。あるいは敵も、こちらの出方を伺っているというところか。
扉に背中を張り付けたまま、手早くバスタオルを巻きつけた。こちらの妙な静寂に相手も気づいているはずだ。こうなると、もはや誘い込まれているのがどちらか分からなくなってくる。が、ここで息を潜めていても始まらないことは確かだ。奇襲で先手を打つしかない。
呼吸を止めて耳を澄ませる。扉越しに聞こえる僅かな物音から、相手の位置を予測する。ベッド脇──おそらくナギが携帯している荷物を物色している。バッグには多少の現金と地図、手帳、そして──
ナギは体当たりするようにドアを開け放ち、寝室に飛び出した。あたりをつけていたベッド脇に無心で銃を向ける。しゃがみこんだ体勢の人影が、ブリュンヒルデを手にしていた。それさえ確認できればいい。撃つには十分すぎる理由だ。そう思って、重い引き金を半分引いたところでナギは完全に動きを止めた。
それは、ナギが無意識に──しかしどこか意図的に──警戒の範疇外においてきた人物だった。
「リュ、カ……」
その名を持つ、かつての仲間によく似た人影は微動だにしない。ブリュンヒルデを右手に持ったまま、肯定もせず否定もせずこちらを見返していた。銃を向けているのはナギのはずだが、彼女の方こそが金縛りにあったように凝固していた。息のできない数秒の後、窓が音もなく開かれた。
「撤退だろ」
眼前の男とは別の、聞き覚えのある声。ナギはそちらを見なかった。窓側から銃口を向けられていることだけは、気配で察した。
「……分かってるよ」
侵入者は落ち着き払った態度で、ブリュンヒルデを懐にねじ込む。ナギから視線を外さないままで一歩一歩開け放たれた窓へにじり寄った。
雨はいつの間にか止んでいた。鈍い月明かりと街灯が、協力して窓際を照らし出していた。ナギは、視界に映る見慣れない光景に呆然と立ち尽くすしかなかった。ブリュンヒルデを持って逃走するリュカ、その隣で銃口をこちらに向けて構えるサブローの姿がある。
その銃は思った以上にあっさりと火を噴いた。魔ガンの爆発音とは違う、鉄と鉄が爆ぜ合う生々しい音が耳元で轟いた。──耳元で。その違和感を覚えるだけの僅かな冷静さは残っていたようだ。
「リュカ! さっさと行けよっ!」
あ、焦っているときのサブローの声だ──などと場違いにも懐かしさを感じた。その声を、ナギのうるさすぎる鼓動を、かき消すように連続して二発の銃声が響いた。それも耳元で鳴った。鼓膜がおかしくなるくらいに、すぐ近くで鳴っていた。
「追うよ。ナギはここに居て」
鼓膜が上手く振動しないせいか、一番聞きなれたはずの声が別人に聞こえる。シグ自身はほとんど音もなく現れて、ナギの反応など待たないまま窓へ走っていた。
「──……いよ」
「え?」
「いいよ。追わなくて」
窓を跨ぐ前に、シグはナギの独り言のような声を拾って足を止めた。その数秒のロスが二人の追跡を難しくしたのは言うまでもない。シグは一瞬窓の外へ視線を投げたが、すぐにナギの方へ踵を返した。
「なんで」
ナギは答えない。シグにしても、答えを求めるための質問ではなかったからそれ以上追求はしない。代わりに、今、全身を駆け巡っている苛立ちの在り処を口にすることにした。
「なんで呼ばないわけ。俺言ったよね、なんかあったら呼んでって」
やはりナギは答えない。それがシグの苛立ちに拍車をかけたが、その全てを一度の深い嘆息に詰め込んで昇華させる。
それから数秒か、数十秒か、とにかくそこらあたりの長い沈黙を互いに感情の整理に費やした。シグは、ナギが口を開くのを辛抱強く待った。が、その「辛抱」とやらは状況的にも性格的にも、そう長い間持続するものではなかった。次の言葉を模索し始めた矢先に、ようやくナギも重い唇を開いた。
「シグはなんで、来たの」
「なんでって……ドアの音」
「その前から気づいてたでしょ」
「それはお互い様だろ。俺はナギの様子を見て、間接的に警戒してただけだ」
「シグは……簡単に、引き金が引けるんだね」
俯いたままほとんど消え入りそうな声で、「誰にでも」と、付け加えられた。誰がどう解釈しても皮肉でしかないそれを、シグは黙って聞いていた。
「そうじゃないと一緒にいる意味がない」
一拍置いて、シグは迷いなく答えた。
「ナギに八番隊は撃てないし、撃たせるつもりもないし。……もともとそういう約束だったろ。あいつらを追うのも撃つのも俺の役割で、俺はただそれを実行するだけ。だから──」
ナギの長い髪の先はまだ濡れていた。だから雫が時折ぱらぱらと雨のように落ちる。細い首筋を伝い、白い肌を辿り、落ちていく。少し視線を落とすとそういう画面が遠慮なく視界に飛び込んでくるから、その度に意識が別の方向へ奪われてしまう。
「……とりあえずなんか着てよ。目のやり場に困るんだけど」