episode x 嘘吐き だれだ


声を張り上げて手を振ると、少しだけ立ち止まって肩越しに振り返ってくれた。ただし、手を振り返してくれるわけでもなければ、会釈を返してくれるわけでもない。本当にほんの少しの間こちらを見返して、また背を向けて温室の方へ去って行った。
 また肌寒い風が通り抜けていった。その風の音に混ざって、微かに鈴の音が聞こえた。
「……え」
今度ははっきりと、ひとつ。鼓膜をくすぐる優しく、懐かしい、鈴の音。
 畑の脇で、たった今花弁を広げたばかりの白い花が揺れていた。生まれたばかりの赤ん坊のように、少しの風に小さく身体を震わせていた。その花の名を彼女は知っている。
「ユキスズカ……。あ、そうか。アルブでは珍しくはないんだっけ……」
記憶の中のユキスズカは、常に視界を埋め尽くすほどに咲き乱れていた。そんな幻とは違う、現実に咲くその花はたった二輪で、それぞれが寄り添うように重い花弁を重ね合わせていた。
「知りたかったな」
意思とは無関係に口からこぼれでた、それはおそらく本音だったのだろうが、唐突に聞こえた自分の声に驚いて目を見開いた。知りたかった──無機質な情報としてではなく、サクヤの口から、サクヤの声で聞いてみたかった。彼が子どものように瞳を輝かせて、夢中になって調べた黒いユキスズカのことを。この街でどんなふうに育ち、どんな出会いがあったのかを。鉢ごとプレゼントしてくれた白い花に“特別な意味”があったのかどうかを。そして同時に、知らねばならないと思った。彼が辿り着いた、地下深くに置き去りにされたままの真理を。


 テーブルの上に並べられた甘い香りの茶は、ほとんど口をつけられないまま応接室の白い天井を映し出していた。フェンが飲んでいたものだけが空、といっても底の方には溶けきれなかった砂糖がごみのように残っている。
 フェンは上機嫌だった。自らの描いた筋書き通りに事が運んでいる。その喜びを誰かと分かち合いたくて、扉の前に立っている人影に呼びかけた。
「ほーんと、サクヤくんにはいくら感謝しても足りないくらいだよねぇ……。ギブアンドテイクとは言え、まさか最後のピースを見つけてくれるなんて。後は、そうだね。いろんなものが然るべき終わりに向かって行くのを待つだけかな。その辺りに僕はさほど関心はないけれど、君はそういうわけにもいかないだろうから」
 人影は入り口付近に立ったまま無反応を決め込んでいた。応接室の大きな窓から入る西日が、赤と白と黒の風景を作り出す。黒い影はどれも微動だにせず、設置された観葉植物と同じようにただ存在しているだけだ。
「君も僕も、望みは違えど熱心な蛙であることに変わりはない。しかも秘薬を見つけるためなら目玉をえぐり出すことも厭わないホンモノだ。……みんなが笑える結末になるといいよね。もちろん、この僕も」
フェンは瞼を閉じて、出会った全てのモノをひとつひとつ思い返し、慈しんだ。そうすることが、然るべき終わりに向かうために必要だと考えた。最後にお祈りのように呟く。

 全ての熱心な蛙に、相応の真理が与えられますように、と。