風向きが変わった。とても不穏な方向へ、ティーカップからあがる湯気が流されていく。
「ある蛙が、二本脚で立って歩くことを夢見て毎日毎日神様にお願いをするんだ。蛙があまりにも熱心に祈るものだから、神様はその願いを聞き入れて、彼に立って歩ける秘薬を授ける。蛙は大喜び。ところが、どこを探してももらったはずの秘薬が見当たらない。風変わりな蛙だったから、妻はおろか友人の一人もおらず、誰に尋ねることもできずにいた。そのまま長い長い月日が経って蛙が天に召される日、神様が蛙の足元を指さしながらこう言うんだ。『なんだ秘薬は使わなかったのか』ってね」
顔色ひとつ変えずに、フェンは淡々と、しかし一度も詰まることなくすらすらと語った。
「蛙の眼は自分の足元を見られるようにはできていないからねー。とんだ皮肉を孕んだ昔話ではあるんだけど……僕はこの話が割と気に入っててね。研究が煮詰まったときは、まず足元を見直すことにしてるんだ。……真理は常にそこにあるもの。分厚い蓋に覆われていたとしても」
「……おっしゃることは分かります。ただ、私たちの足元はパンドラの箱かもしれません」
ナギの足元。シグの足元。そしてサクヤの足元に広がっていたもの。始まりから終わりまでサクヤが疑心を持ち続けていたもの。誰かは闇だと言っていた。蓋をしても溢れだしてくる、そういう類の闇だと。
「ははは、それは喜ばしい。最後に真理が残る、約束された箱だ。開けるつもりがあるなら、私にも少しは助力ができるよ」
フェンは机の一番上の引き出しを開けると、その中にあるさらに小さい鍵付の引き出しの中から長い鎖に繋がれたグングニル機関のエンブレムを取り出した。鈍く光る、何かの宝石でできているのかと一瞬目を細める。が、それは宝石ではなく、最高純度のラインタイトで形作られたものだった。
「何故、あなたがこんなものを?」
「そういう立場にかつて居たことがあってね。昔も今も変わらず、ニブル事情に一番明るいのは僕だ。グングニルの創設にも、運営にも、多少の関わりを持ちながらここまできてしまった。ただまあ……そろそろ必要の無いものだとも思って」
何故か、視界がちらついた。ちらつきの合間に、どうしようもない違和感が広がった。
「君はとても熱心な蛙だ。二本脚で立つことを望むなら、これは秘薬に辿り着くために必要になる」
「教授は、サクヤにも同じことを言いましたか」
「さあ、どうだったかな。蛙の話をした覚えはあるよ」
とんだ狸だ──ナギは手のひら大のエンブレムを受け取りながら、胸中で凄まじい勢いで増長する嫌悪感と警戒心を止めることができなかった。ほとんど何も知らない? 普段と変わりない? ──この男だ。この男は、間違いなくサクヤの目的を知りながら背中を押している。
湧きあがる憎悪で指先が震え、唇が震えた。
「君はとても分かりやすい」
子どもを諭すときのように、フェンは苦笑を洩らした。ナギは黙っていた。美し過ぎるラインタイトを手の中で握りしめて、何かを必死で耐えた。
「ナギ、もうここには用ないだろ。帰ろう」
シグの声に無言のまま頷いた。とにかく一言も口を利く気になれなかった。ありとあらゆる言葉が喉元でいがみあっている。それはどれも、信じられないくらい薄汚い言葉だった。
「どーも。お世話になりました」
来たときと何ら変わらぬ様子で、シグは何事も無かったかのように会釈をした。そして来たときとは明らかに違い、ナギの手を引いて足早に応接室を出た。ナギは大人しくシグの後ろをついてくる。握った手が熱を帯びていた。
温室の前までずんずんと引き返してきて、シグが思い出したようにいきなり振り向いた。
「……なんだ、泣いてるかと思った。また」
「ま、また?! そんな言うほど……や、確かに……ここのところ涙腺が……」
「もともとゆるゆるでしょ。なに我慢とかしてんの、気持ち悪い」
「してないよっ。泣くより腹が立ってきて……! 駄目だっ! 戻ってテーブルごとひっくり返してやりたい! あの狸ジジイ!」
「顔真っ赤ですけど」
「だって腹立つじゃない! 腹立ってきたらなんか……涙が、こみ上げてきて……」
ふりだしに戻る、というわけだ。怒りと同時にこみ上げてくる水分を関所でせき止めるために、顔面中の筋肉に無理な力が加わる。──握ったままの手が、熱かった。
「それよりちょっと提案があるんだけどさ」
「提案? 何、めずらしいね」
闘牛みたく鼻息を荒らげていたナギも、疑問符を発射することで多少クールダウン。シグは遠目に見える建物を指さして深々と嘆息した。
「ラウンジ。フツーーーのコーヒーが飲みたい。あの部屋の臭い、凄くなかった? 息止めてて死ぬかと思った」
「ああ、何か甘味成分が高いお茶だって言ってた。……息、止めてたんだ?」
真剣に頷くシグを見て、堪えた笑いが鼻から出てしまう。そう言えばやけに口数が少なかった。
「……泣いたり笑ったり忙しそうね、あなた」
「だから泣いてない。そこ重要。で、一服するんでしょ? 行こうか?」
再びこっくりと頷くシグ。肺の空気の入れ替えを口実にした休憩は、ナギにとっても必要なものだった。胸中に渦巻くどす黒い感情を、言葉を、言葉にならない苛立ちを、丸ごと綺麗な空気に入れ替えてしまいたかった。
と、数歩歩いて、ナギはすぐに踵を返す。
「は? 何?」
「ごめん、先に行ってて。すぐ行くから」
ひたすら疑問符を浮かべるシグを残して、ナギは小走りに温室の方へ向かった。見間違いようの無い後ろ姿が目にとまったからだ。病院衣に全身黒い包帯姿、最初に見かけたときと同じようにこちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
「あの、レイヴンさん? でしたよね、確か」
何となく数メートル手前で声をかけた。反応は無い。低い唸り声を上げているだけだ。もしや気分が悪いのか。
「だ、大丈夫ですか……?」
一歩踏み込んだ。と同時に唸り声が途切れ、黒いミイラ男が仰向けに転がってきた。それもかなりの勢いで、だ。ナギは先刻の焼き直しのように、またもや数歩後ずさってしまった。レイヴンと呼ばれていた男は、尻もちをついたまま万歳、その両手には芋が握りしめられている。よくよく見ると、彼がしゃがみこんでいた傍らには籠いっぱいに芋が積まれてあった。どうやら収穫中だったようだ。
「すみません、なんかまた邪魔しちゃったみたいで……。てっきり気分が悪いのかと」
転げたままの体勢でナギを一瞬じっと見つめたかと思うと、レイヴンはおもむろに身を起こし、あちこちについた土埃をはたき落とした。そして今掘り起こしたばかりの芋を綺麗に半分に割ると、何の衒いもなく片方をナギに差し出した。
「え、食べられるの、これ。生のまま?」
ナギの疑問にレイヴンは答えるでもなく、自ら残りの半分を口にした。からからに乾いた色の無い唇が、鮮やかな黄色の果肉をむしりとっていく。黙って咀嚼するレイヴンに倣って、ナギもとりあえず一口。
「うっわ、あまー!」
掘ったままの固い芋は、噛めば噛むほど甘みを増して口内で溶けていく。ナギはわけのわからない感動に包まれて、ひたすら歓声をあげながら食べ続けた。レイヴンは観察でもするかのようにその一部始終を凝視。その視線にようやく気付いて、ナギは気まずさを振り払おうと愛想笑いをこぼした。その笑みに応えるように、黒い包帯の奥の眼が細まった。もしかして笑った、のだろうか。ナギが呆気にとられているのをよそに、レイヴンはいそいそと抱えていた芋の山から手頃な大きさのものをいくつか選別して、ナギの腕に抱えさせた。
「ひょっとしてくれるんですか?」
今度はきちんと頷いてくれた。そしてそのまま芋の籠を抱えて去っていく。
「あの! ありがとう!」