episode i 黒い羽のラプンツェル



 アルバ暦837年、種の月。

 アルバ教の総本山がある都市、リベンティーナからの出動要請にグングニル上層部は肝を冷やした。ニーベルングが大陸中にある全ての防衛拠点をすり抜け中央近辺に現れたことは、これまでにも何度かある。ただしいずれも小型で弱りきっていて、孤軍奮闘よろしく突撃してきたというよりは運悪く迷い込んでしまったタイプだ。そういったケースにも普段通り適切な部隊を迅速に派遣することで事なきを得てきた。しかし、今回はいささか事情が異なる。
「……でっかいなぁ。どういう食生活したらああなるんだろ」
 シグは手の甲で太陽光を遮りながら眉根を寄せた。視線の先、上空で南中にさしかかった太陽が標的の輪郭を曖昧にしている。眼つきが悪いのは生まれつきだが、今はより三白眼が際立った。
「少なくとも誰かさんみたいな、すずめの涙定食じゃああはなれそうにないね」
 やはり手の甲を望遠鏡代わりに頭上を見上げるナギ。ほぼ名ざしされたも同然のシグが、今度は唇の端も引きつらせてナギに恨みがかった視線を送る。
「……食べたよ、今朝は」
「オープントマトサンド一切れにカップ半分のコーヒー、超絶ちっちゃいオレンジ一個。一体これで成人男性が必要とするカロリーの何パーセントが補給できたというのでしょうか!」
「……ナギは俺のストーカーかなんかなの」
「八番隊隊長補佐として隊員の健康管理に気を配っているだけでしょ?」
爽やかさ全開の笑みで返されて、シグはそれ以上何も言い返せなくなった。
 少食で偏食のシグをナギは親心と責任感から毎食しっかりと見張って──いや、見守っている。かく言う彼女の今朝の朝食は、バゲット三切れにサラダ、目玉焼き、ベーコン、ヨーグルトとバナナ、オレンジを二つ。締めにカモミールティー。
 得意げに語るナギの横で、衛生兵であるアンジェリカが美しい柳眉を潜めて自分の腹部をさすっていた。
「うえぇ。聞いてるこっちが横腹が痛い。毎日それだけ食べてなんでそんなにガリガリなのよ? とんでもない寄生虫かなんかお腹に入ってんじゃない? 診ようか?」
「ガリガリじゃないっ。必要な筋肉はついてるっ」
「あんたねえ……女子に必要なのは筋肉じゃなくて適切な箇所の適切な量の贅肉でしょうが」
「ほ……ほっといてよっ! だいたい胸は食生活でどうにかなるもんじゃないでしょ!?」
 ついさっきまでシグへ忠告していたはずだったのに、気付けばナギ自身が墓穴をほっていた。シグは上空を見上げたまま両手で自分の耳を塞いでいる。こうしておけばこの手の話題で言われの無いとばっちりを被ることは無い。女同士、特定の部位の「肉」の話がエスカレートする中シグだけは無我の境地で「例の巨大なアイツ」をひたすら見つめ続けた。
 そこへようやく救世主たちのご登場。
「昼間っからなんて話してんだお嬢さん方は……」
 呆れかえった声で合流してきたのはバルト。この隊の最年長、と言ってもまだ四十路に満たない。恰幅の良い彼の後ろから同隊所属のサブロー、リュカ、マユリが上方の標的に感嘆を漏らしながら歩いてくるのが見えた。
「緊張を和らげようと思っただけよ。今回はどうも一筋縄じゃいかなそうだし。……で、隊長は?」
アンジェリカの疑問にバルトは無言のまま親指で後方を指した。各々半ばぼんやりと空を見上げて歩いてくる、そんな部下たちを掻き分けるようにしてその男はやってきた。少年のように瞳をキラキラと輝かせて。
「うわ~報告で聞いたよりでっかいな~。この位置から見てこれだけ圧巻なんだから、間近で見たらもっとすごそうだ」
僅かに頬が紅潮している。そして僅かではなく白い歯がのぞく。半笑いで話を合わせる隊員たちと、自分たちの真上に威風堂々と構えるニーベルングを交互に見やって、その男は満足そうに大きく頷いた。
「……サクヤ」
先刻まで必要な「肉」について熱く論議していたナギも平静を取り戻す。このままこの男を放置するのは得策ではない。長年の経験が警鐘を鳴らしていた。そしてその予測は十中八九正しかった。足取りも軽やかにやってきたこの男の更に後方、この世の終わりを体現したかのように悲壮感漂う司祭がふらふらとこちらへ向かってくるのが見えた。サクヤはお構いなしに、今回の「標的」に夢中である。
「巨体は巨体だけどもっと特徴的なのはこの色だよね。ここまで真っ黒なのは今までいなかったんじゃないかなあ? とりあえず呼称は“カラス”で本部に申請するとして……カラスはまだ使われてなかったよね?」
 ニーベルングは発見次第、対処した小隊の隊長が適当な呼称をつけることになっている。ニーベルングの台頭により絶滅したといわれるかつての空の覇者、鳥の名を付けるということ以外に特に規定はない。規定はないがそれはそれ、暗黙の了解というのが当然ある。先日八番隊が討伐した大型ニーベルングを「ブンチョウ」と名づけて機関上層部から大顰蹙を買ったのは皆の記憶に新しい。
「ナギ、聞いてる?」
「……聞いてる。それよりサクヤ、後ろ」
「後ろ?」
その反応は絶対におかしいだろうとナギは間髪いれず胸中で呟いた。ナギの記憶が正しければ、彼──グングニル小隊第八番隊隊長サクヤ・スタンフォード中尉は、数名の隊員を連れて最低限の状況を把握するためリベンティーナ教会の司祭殿を訪ねたはずだった。おそらくは彼の背後でげっそりしているのがその司祭で、何かしら状況を把握したからこうして現場にこぞって現れたのだろうが。
 サクヤは数秒間凝固した後、取り繕うように咳払いをした。
「失礼、取り乱しました。えーっと、みんな。この方がグングニルに連絡してくださったヴォルフ司祭。直接話していただいた方がいいと思ってお連れした」
その割に思いきり存在を忘れていたようだが、誰も上げ足をとる者はいない。彼は曲がりなりにもこの隊の隊長である。だとかの肩書云々とは全く以て無関係、八番隊隊員は全員サクヤの所業に慣れ切ってしまっているだけのことだ。日常茶飯事にいちいちつっこみをいれる者はいない。
「今僕らの真上に居座ってるのが今回の標的であるニーベルングだ。呼称はカラス(予定)。三日間あそこから全く動いていないらしい。ですよね? 司祭」
「ええ、はい……。正確にどうかと言われると困るんですが……三日間あのような状態です。襲ってくるわけでもない。それが逆に不気味でして……」
 司祭は一瞬上方に視線を移したがすぐに地面を見つめる。血の気は失せ、両目の下には濃いくま、司祭からはおよそ生気といったものが感じられなかった。隊員たちは生返事をしながら、皆思い思いに塔の先端を注視した。
 皆の視線の先にはこの街のシンボルである大時計塔、そしてその天辺を台座代わりに漆黒の翼竜が鎮座している。それは微動だにせず、一見すると彫像のようであった。周囲には禍々しさと神々しさが混ざり合ったような、独特の空気が漂っている。
「それにしても黒いですねぇ……」
「黒いっすねぇ」
 一際若い隊員であるマユリが眼鏡を光らせながらありのままの感想を述べると、それに倣ってサブローも眼鏡を光らせた。意図的にではない。塔を見上げていると必然的にそうなる。
「黒い黒いって、んなの見りゃ分かるんだよっ。他になんかないのか、特徴。横から見ると美形とか、瞳が純粋そうとか」
 腕組みポーズで口をへの字に曲げたリュカ隊員、彼も若い。若いがわけもなく偉そうだ。項まで伸ばした長髪からどうにも軟派な印象を受ける。が、彼の発言はそれなりに受け入れられたようで、眼鏡の男女はそれぞれ対称方向に塔の横手に回りこんだ。神妙な面持ちで一周すると、無念そうに頭を振った。