episode xi ティーカップの底


 子どもの頃、することがなくなると空を見上げて雲を見ていた。見上げる度に形を違えるそれは、口を開けた大トカゲだったり、バランスの悪い帽子だったり、かじった林檎だったりと、飽きることがない。夜になるとベランダに出て、夢中になって星を数えた。新月の夜は特別光り輝いて見える。星座を見つけ、流れ星を待って、満たされた気持ちで眠りについた。
 今もあの頃と変わらず、気がつくと空を見ている。ただ、探しているものは雲でも星でもなくなってしまったけれど。


「羨ましいくらいぼんやりしてるけど、見たの? 新聞」
 視界を埋め尽くしていた窓越しの空は、シグが向かいの椅子に腰かけたせいで全く見えなくなった。仕方なくテーブルに置かれたタブロイド紙に手を伸ばす。
「何? なんか面白い記事でも載ってる?」
「面白くない記事なら一面に」
訝りながらひとまず目を通す。と言っても、ほとんど時間は必要なかった。紙面一杯に踊る見出しが全てを物語る。

 ──第二防衛ライン、陥落──

 ナギは大きく目を見開いたまま、記された情報を一字たりとも逃さぬように辿った。そこには、ニーベルングの大群が第二防衛ラインを突破し、現在も侵攻中であること。中部の主要都市であるミドガルドが激戦区と化していること。ミドガルドに居を構えるグングニル中部第一支部が孤軍奮闘していること。そして中部第二支部が総員出撃したことなどが感慨なく羅列されていた。全て本日未明の話だ。
「何これ……最悪。よりによって新聞で初めて知るなんて」
「零番隊には関係の無い話、ってことなのかもね」
否定する気力もないし、実際その通りなのだろう。ただナギ個人としては気にならないはずもない。中部第二支部を仕切っているのは父ディランだ。それを差し引いても中部には知人が多い。できるなら、今すぐ駆けつけたいくらいだった。
 が、シグがタブロイド紙を見せた意図は別にある。そしてそのことに、ナギも気付かないわけにはいかなかった。別の見方をすれば、二人はこの瞬間を待っていたと言っても良かったのだから。
「今しかないんじゃない」
シグの呟きに、躊躇いなく頷く自分がいた。
 今、グングニル機関とニーベルングを取り巻く全ての視線は中部に集中している。この状況なら昼前には本部からも増援が送られるだろう。大所帯の六番隊か、後方支援に長けた九番隊、あるいは三番隊かもしれない。いずれにせよグングニル塔の“守り”は薄くなる。事を成すにはそうあってもらなわねばならない。そういう意味で、これ以上の好機はおそらくもう巡ってこないだろうと思えた。
「加勢に行くなら、俺はそれでもいいけど」
今度は静かにかぶりを振った。シグにしては珍しい及び腰な物言いだと思った。
「あっちにはキャプテンが……支部長がいるから何とかすると思う、駄目なら撤退するし。そういう判断は間違わない人だから。って私のこと気にしてくれるのはいいんだけど、シグは? シグも八番隊の前は中部所属じゃなかった?」
「そうだけど。ちょっとの間、籍がそこにあったってだけで家族がいるのといないのとじゃ大違いでしょ。俺は第一支部にたいして思い入れはないし」
おかしなことを聞くなとばかりに、シグは肩を竦めて椅子の背に身体を預けた。
 じゃあ八番隊は、シグにとってどうだった? ──喉元まで出かかった言葉を、ナギは冷めたコーヒーで流しこんだ。シグはこの話題については多くを語らない。彼には彼なりの、そしてある意味ではナギ以上の“思い入れ”が八番隊にはある気がした。そこにおいそれと触れるべきではない、そう考えるから何も言わない。ちょうどシグが、ナギのいくつかの秘密を見て見ぬふりし続けるのと同じ理屈だ。
 黙ってカップに口をつけるナギを見て、シグもタイミング良く真横を通りかかったウェイターを呼びとめた。顔見知りすぎるウェイターは、あろうことか口をへの字に曲げて不快を顕わにする。
「……ちょっとは気を遣えよ。いっそ手伝うとか、そういう選択肢があってもいいと俺は思うぞ」
「やだなぁアカツキさん。仮にもお客さんに手伝えとか」
「ご、ごめんね? 朝食時間、こんなに盛況だとは知らなくて」
「だろうな。いつも昼までぐーすか寝こけてやがるからな」
 大量の皿をトレイに乗せた状態で、アカツキは器用に丸テーブルの間をすり抜けてキッチンに消える。シグは伸びをして、その背中を心配そうに見守っていた。コーヒーは結局もらえるのかもらえないのか、そういう心配だ。それが傍目にも見て取れるから虚しい。
「……私が淹れてくる」
「えーいいよー。それだといつもと変わんないじゃん」
などと言いながら、ナギの飲みさしのカップを物欲しげにぐるぐると回す。
「こーいうのって、豆? 淹れ方の問題?」
「何が?」
「……ここのは塔の食堂の百倍うまいから」
「それは是非、店長さんに直接お伝えしてみてはいかが?」
「気が向いたらね」
 伝える気はなさそうだ。シグ待望のコーヒーは、そんな他愛のない会話の内に運ばれてきた。給仕はアカツキではなくカリンだ。たった一杯のコーヒーのために、朝から百点満点の笑顔を添えてくれる。
「お待ちどーさまーっ。シグくん専用スペシャルブレンドでーす」
「ははっ、何それ」
シグが思わず声を出して笑う。ナギはそれを物珍しそうに見ていた。
「え、ほんと何それ。いいな、シグだけずるい」
「って言えってパパが」
「消しゴムのかすとか入ってないよな」
一抹の不安を抱きながら恐る恐るカップに口をつける。いつもと変わらない、程よい苦みと芳醇な香り。ここから消しゴムのかすの有無を見極めるのは至難の業だ。早々に諦める。
「……一口ほしい」
「は? いや、同じでしょ。それと」
同じ釜の飯ならぬ、同じサイフォンのコーヒーだ。消しカスだの唾だのが混入されていない限りは全く同じ成分だと思うのだが。
「はいはい“ナギちゃん専用スペシャルブレンド”お待たせしました。奪い合うなよ、見苦しい」
 二人のやりとりを見かねたアカツキが、最高のタイミングでおかわりを運んできた。自他共に了承済みの、ただのおかわりだ。ナギは名称で満足したらしく上機嫌である。対照的にアカツキは、ナギの肘下に敷かれたタブロイド紙を一瞥して表情を曇らせた。
「えらいことになったもんだな。チビもそっちに招集されたみたいだ」
「ユリィ隊長が? ってことは三番隊は確実に不在、か」
「二人は行くのか」
「俺たちはどこまでもフリーですよ。ニーベルング討伐に関しては、機関からの信用度はゼロですからね。まぁただ……この機に乗じてやるべきことはありますけど」
 無言で相槌だけ打つアカツキ、そのすぐ後ろでやはり新聞に目を通していた客が食後のコーヒーを追加注文してきた。ここにいるのはアカツキにとっては馴染みの客ばかりだから、受け答えは実に気軽で適当だ。
「アカツキさん」
踵を返すアカツキを、ナギが呼びとめた。