episode xi ティーカップの底


「準備して、日没後には出ようと思う。私たちがいない間にもし──」
「いいから。こっちのことは気にしなくていい。気が済むまでやって、何かしら納得して、またここに帰ってくればいい。オムライス作って待っててやるよ。シグは……トマトスライスか?」
小さく笑いを噴き出すナギの横で、シグはぽかんと口を開けている。どうもアカツキにからかわれるのが日常化している気がして、しかもそれをとりわけ不快に思わない自分がいる。こういうのを居心地がいいと言うのかもしれない。そういえばここ最近は教会で寝ていないことを改めて思い起こした。
「いや、俺も。……俺も、オムライスで」
「じゃあシグくん専用特製ミニミニオムライスだね」
 カリンがまた、悪気もなくそんなことを言うものだからナギとアカツキの意地の悪い笑いが止まらない。笑いの種にされているのに、シグ自身もつられて笑いがこみあげてくる。
「おーいアカツキ~、コーヒー。自分でやっちゃうぞ、もー」
「悪い悪い、すぐ淹れるよ」
 待たされた客も、しょうがねぇなとばかりに笑っている。ここはそういう誰も苛々しない魔法のかかった場所なのだ。
 カウンター奥に消えるアカツキを見送りながらナギとシグも席を立った。
 完璧な準備が必要とされた。
 手持ちの魔ガンとハンドガンの充分な調整、ラインタイトの補充、護身用にナイフを数本。最小限、しかし充分な量の明かり。事前の腹ごしらえはもちろんのこと、携帯食も準備しておいた方がいい。野戦の準備をしているのだと思えば要領は分かる。その中からシグと話し合いつつ余計なものを削っていった。グングニル上層部の一部の者が、そしてサクヤが短時間で行って帰って来られる場所だということを加味した方がいい。
「後はこれ、か」
 案外に嵩張る、グングニル機関のエンブレムを象ったラインタイト。フェンから預かったものだ。これが第二層以降のパスキーとして機能する。
 荷物の準備が済んだら次は身辺整理と情報整理。三番隊が、つまりはユリィが中部へ発つ前にこの家のことは任せなければならないだろう。それから一番肝心なグングニル塔地下への潜入手引き。協力者は手配済みだ。レーヴァテイン──代表のシスイには今回のことを伝えてある。グングニル機関下層で入手した全ての情報を開示、共有することと引き換えに、地下への潜入を手引きさせた。グングニルの地下資料室はそもそも少尉以上しか入れないよう徹底されているから、まずその扉を開く必要があった。
「外部の……よりにもよってレーヴァテインに頼むってのも、皮肉な話だけどね」
 シグはそういう単純な感想だけを口にする。ナギとシスイがどういう繋がりを持ち、それを互いがどう利用しているかには決して触れない。その態度はナギにとってありがたい反面、無性に不安を煽るものでもあった。
「何?」
「……ううん、何でもない。地下二層より先は少尉クラスも当然シスイも入ったことがない。一般隊員には閉架書庫だとか保管庫だとか言われてるところね。今までは、ファフニールが保管されてたんだろうって漠然と考えてたんだけど……」
「それを論じても時間の無駄でしょ。見に行くんだから、見た方が早い」
「それもそうだね」
 シグのどこまでもあっさりした言い草に、思わず苦笑が漏れた。


 全ての準備を終え、夕刻すぎにはグングニル塔へ向かった。この時間帯なら補給や報告に戻る零番隊が少なくはないから、ナギたちも彼らに紛れて堂々と塔内に入ってしまえばいい。後はシスイと通じているグングニル隊員の指示に従って、隊員宿舎塔の図書室で夜を待った。昼間でも誰も寄りつかないであろう地質学だの鉱物学だのの専門書の棚、それに背中を預けて座り込んでいた。
 今夜は新月、窓の外まで延々と続く闇夜を目にしてそれと知る。
「複雑だよねぇ」
 シグがおもむろに立ち上がる。闇に埋め尽くされた視界にも慣れ、黙りこくっていることにも飽きたところだった。
「今更だって気がしなくもないけど」
ナギは膝を抱えたままで苦笑した。おそらくシグもそんな風に思っているから怒りもしないのだろう。
 レーヴァテインに通じていたのは、整備部の責任者であるロベルト・シーカー大佐だった。レーヴァテインの所持する魔ガンが潤沢であることにも、シスイの持つ情報が豊富で正確であることにも、おそらく彼は大きく関与している。彼らが互いにその立場を利用しているにしても、目的を共有しているにしても、彼らが描いたシナリオの最も危険で重要たる核の部分ををナギたちが無償で買って出たようなものだ。付け加えるなら、シーカー大佐とは顔見知りである。グングニル隊員で整備部の世話にならない者はいないから、当然といえば当然なのだが。
 シグは、口を切った割には話を続ける気はないらしい。ナギもようやく重い腰を上げた、刹那。
「こっちの質問もまさに今更って感じなんだけどさ。行けるの、地下」
「何その確認、ほんと今更っ」
不謹慎だとか場違いだとか、そういう意識が一瞬頭をよぎったが、ナギは気にせず笑った。シグはいつからそのことを気にかけていたのだろう、もっと言うなら、いつから他人の心配がきちんとできるようになったのだろう。それがこんな風に土壇場だったとしても、目を見張る成長ぶりだ。
「ここは教会でもカタコンベでもないから」
「狭い、且つ暗いとこじゃなかった?」
「そうだったかな。まあ大丈夫でしょ、シグもいるから」
「……狭かろうが暗かろうが、ひとりじゃなきゃ行けるってこと」
シグは疑問符をつけず、自らに確認をとるように呟いた。それで腑に落ちたかと言えば、全然落ちてなどいない。理解不能とでも言いたげに小首を傾げながら、さっさとエレベーターへ歩を進めた。ナギも今度はすぐさま、その後を追う。
「あ。もう一個、確認」
エレベーターの扉に手をかける。蛇腹式のそれは、少し動かしただけでがちゃがちゃと過剰に騒ぎ立てる代物だった。
「もう後戻りきかなくなるけど……いいんだよね、それで」
「必要性を感じない」
「俺も」
 本来一人用に作られた狭苦しいケージに、二人で無理やり乗り込んだ。格子の向こうには夜の図書室が、足元には無限の闇が広がっている。クレーンとワイヤーが全力で擦れ合う、その振動でケージは不安定に揺れながらも、二人をきちんと地下へ送り届けてくれた。
 空気は冷えていた。部屋というより井戸の中に投げ入れられたような気分だ。脳がそういう認識だから全身に悪寒が走るのは仕方がないことなのかもしれない。
「暗いね……。明かりは、点けない方がいいのかな」
暗いことよりも、寒いことに意識が集中していた。知らず両腕を抱える。
「どこに漏れるわけでもないんだからいいんじゃない? 点けようよ」
 エレベーターを出てすぐの両脇の壁に、どこまでもお粗末な簡易のランプが二つ掛けられていた。シグは迷わず二つのランプに火を灯す。四方の壁には書棚が敷き詰められていた。書棚と書棚の間には煉瓦が見え隠れ。古風だの伝統的だのを通り越して、ただただ辛気臭い。
 シグは僅かな明かりを頼りに、目につく全てのランプに火を灯していった。計八つ。十メートル四方の地下室には充分とは言えない光量だったが、そもそも夜中に開放されていない場所なのだから致し方ない。ランプがあるだけマシというものだ。
「さ。一応ここも洗い出す? 上官は普通に閲覧できるところだから大して意味はない気はするけど」
「そうだね……そもそもここにあるのは、五年以上前の古い資料ってだけで……」