鉄を踏む無機質な音がリズム良く反響する。視線は足もとだけに集中、後はピントをずらす。そうして数分、一定の速さを保ち降りつづけたところ程なくして床を踏みしめる感覚を覚えた。──床だ。むき出しの土ではない、人の手で整備された固い床。
着地して、振り向いた。同じ動作をシグもとっていると思われる。二人は何も言わなかった。想像を絶する光景、というのは少し違うかもしれない。想像するための材料を何一つ持っていない状態でここへ来た。今までの人生で培ってきた価値観、倫理観、世界観、そういうもの全てが通用しないことだけはすぐさま理解した。生まれたての赤ん坊のように、ただ眼前に広がる世界を呆然と見つめた。全景を把握するには、首を縦に何度か往復させねばならなかった。最大等級だと思っていたサギよりも、遥かに巨大。
「コンドル級の上の上……って、等級とか必要ないか。これがはじまりの一体なんだろうから」
倒れる前の巨木の根。干からび、骨と皮だけで存在を保つミイラ。それが、はじまりのニーベルング【鶏】の姿だ。拘束具と思われる巨大な鉄の塊が両足にあったが、もはや必要ないのではないかというほどに衰弱しきっていた。
「生きてる……」
「だね。ご立派にニブル吐いてる」
ナギの呟きに、シグは皮肉の笑みで返した。口元から漏れている濁った霧は、間違いなくニブルだ。その口が、皮だけの首元が、僅かに動く。そしてその声は響き渡った。
「ようやく、殺しにきたか」
誰が──その言葉を口にしたのか、確認するまでもない。人は声帯を震わせ、舌と唇で空気の振動を操って言葉を発する。唇を真一文字に結んだまま、話すことはできないのである。
「喋った……人語が、解るの……?」
「解るとも。階級の高い者は、皆、早々にお前たちの言語を理解する。我々が言語を持たないと勝手に解釈したのはお前たちだ」
「どうせ理解するなら、もう少しましな話し方学べば優しくしてもらえたかもしれないね、あんた」
シグはすぐに状況に適応してみせた。無礼に無礼で返すほどの余裕をみせる。力関係は歴然であったからこその平静なのかもしれないが。
「……要求は一つだけ。私を殺してほしい。解放してほしい、ただそれだけだ」
「解放」
その言葉はおそらく正しい。鶏は四肢と翼を鉄鎖につながれ、ここに活かさず殺さずの状態で拘束されているのだ。であれば、何故「逃がしてほしい」ではないのか。
「この身体で逃げることはもうかなわない。自由が利くのは首から上だけ、その下の感覚はとうにない。……もっとも、繋がれているのは私ではなく、お前たち人間の方かもしれないが」
「私たちが繋がれている……」
「そう、忌まわしき欲という名の鉄鎖で。私とエッグを手中に収めてしまえば、この世界では全ては意のままだ。ニブルで人々の恐怖、救済、審判、粛清……神の裁量で行われてきたものを全て制御下に置くことができよう。事実そうであったろう? この塔を建てた男はそう望み、実行してきた。欲の忠実な僕としてな」
グングニル機関総司令、ロイ・グンターのことを言っているのだろう。例の日誌にロイのその後は書かれていなかった。が、彼が純粋にニブルの研究欲にだけ捕らわれていたのなら、ファフニール実験などというものはなされなかったはずだ。
「ニブルの発生源、と書かれてた。エッグとは、そもそも何なの」
「我々種族の王……つまり私が産んだ、文字通り【卵】だ。中には次代の王を含む孵化前の全てのニーベルングの子どもが詰まっている。殻の内部では、既存のニーベルングとエッグの中の雛のための栄養素であるニブルが絶えず生成され、放出される。……分かるか? 何故、ニーベルングがこの塔を目指し、人間を襲うか」
「エッグが無ければ……滅びるしかない、から」
次代の命が、生きるための糧が、全てつまったニーベルングにとって世界そのもののような【卵】、それをロイはコントローラーとして用いることを思いついた。秘密裏に王を監禁しニーベルングの標的を人間へ、グングニル機関へ向ける。いとも簡単に絶対悪のできあがりだ。人々の敵意と憎悪は全て彼らニーベルングに向くよう仕向けた。怯える者、意思を持たない者は救いの手を差し伸べてさえやれば簡単に手なずけることができる。こうして、グングニル機関というロイ・グンター自作自演の世界の舞台装置ができあがったというわけだ。
知らずかみしめていた奥歯が、不協和音をたてていた。
「あなたの言う鉄鎖を、今ここで断ち切ったらどうなるの」
ニブルを垂れ流していただけの鶏の裂けた口が、会心の笑みを浮かべるようにじわりと動いた。
「私を殺せば、エッグとしての機能が止まりニブル生成が止まる」
「ニブルが無くなる……?」
それはつまり、ファフニールという存在が機能しなくなるということだ。はじまりのニーベルングを討てば、全ての連鎖が断ち切れる。ニブル病も、ニーベルングの強襲も、グングニルの闇もすべて終わらせることができる。最善策だと思った。しかし一つ、大きな疑問が残る。これが最善策なら、なぜサクヤはその道を進まなかったのか──。
「くっ……ははっ」
堪えに堪えた笑い声が、地下室に響く。シグが顔を背けて笑っていた。
「あんたペテン師の才能あるよ。黙って聞いてれば今のところ、相当かわいそうな完全なる被害者だもんな」
「シグ……?」
「その厄介な【エッグ】と一緒に亀裂の向こうからこっちにやってきたのはなんでだよ。観光じゃないよなあ? 侵略するのにのこのこ大将が出てくるのも聞いたことがない。……何の力もない人間にあっさり捕獲されるほど弱ってここへ来たのは何故か──逃げてきたからだろ?」
「──そうだ。亀裂の向こうの我が国家では、エッグを産みおとすものを絶対とする王制に異議を唱える者が出始めていた。国は二つに割れた。すなわち、今の王政を擁護する者と新しい王政を唱える者。私は臣下の手引きで空に亀裂をつくり、このアスガルドへ逃げてきた。……一時的な避難のつもりだった。無事、エッグを産み、次代の礎ができればそれで良かった」
「力のある対立者に真っ向から立ち向かうより、さっさと新しい土地で新しい国家開いちゃった方が楽だもんな。……なあ、あんたまだ、言ってないことがあるよな? 王であるあんたが死ねばエッグの機能が止まる、だったっけ? いい言い方思いついたもんだな。でももっと正しい言い方がある。あんたが死ねば、エッグは機能を停止して次代のニーベルングとやら全てが孵化して飛び出してくる。新ニーベルング国家誕生、一件落着。最悪これであんたの望みは果たされるわけだ。こんな仕打ちまでうけて、人間に肩入れする理由は一切ないだろうからね。……悪いけど、あんたを楽にするわけにはいかない」
「好きにすればいい。私とて体内のニブルが無くなればいずれ死ぬ」
「だからさぁ……そういう煽り、勘弁してくれない? 何のために定期的にニブル供給してると思ってんの……」
「……シグ」
地下第三層へ来てからずっと、気になっていることがあった。
「ナギは? 他にもうこれに聞きたいことはない? 無いならそろそろ戻ろうか」
何故、シグはマスクもせずに立っていられるのか。鶏の体内から絶えず吐き出されているニブル、そしてそれ以前に、はじめからこの空間に充満しきっていたニブル量は戦闘時をはるかに上回るものだ。
「あなたに、聞きたいことがある」
「俺?」
本当は何も聞かなくてもいいのかもしれない。その方がいいに決まってる。だって一度蓋を開けたら最後、中にぎっしり詰まった闇は、ひとつひとつ血を吐きながら取り出さねばならないのだから。
シグはちょっとだけ肩を竦めてナギの言葉を待っていた。ナギの唇が動くのを辛抱強く待っていた。だからもう後戻りはできない。ナギは喉元までこみ上げてきた何かを、言葉に変えて吐きだした。
「去年の誓願祭の日。あなた、どこにいた?」