固唾をのむ、その挙動にこんなにもはっきりとした効果音がつくなど思いもしなかった。恐怖だの緊張だの、そういうものはもう臨界点を突破して身体はとっくの昔に麻痺している。だから今更震えもしないし鼓動も早まらない。思考が鈍っているなとは感じた。加えて、然るべき反応というやつが、やけに遅れてやってくる。
鳥の名をあてられた、最初のニーベルング──それが鶏なのか。ニブルの根源と記されていた。では卵とは、何を指す?
麻痺した恐怖心と指先は、機械のようにただ先の頁をめくる。
冠の月3日。
卵【エッグ】を覆い隠す外殻【ファフニール】が試作品ながら完成した。これでニブルの拡散は防げる。今後はこちらの思い通りにニブルの調整と研究を行えるということである。ムスペル地区の経過観察も並行して行う必要があるから、私は中央に帰らずこのまま西部に居を移すことになった。
賽の月10日。
三日前にようやく【グングニルの塔】が完成した。鶏はその地下深くに監禁し……というよりも、鶏を地下に閉じ込めたその上に、カモフラージュとして建てたものがあの塔である。当初ロイが発案したものよりも随分厳めしく重厚に建てられたようだ。建設に直接関わった■■■など数十名に事の次第は知れているらしいが、イニシアチブをとられることにならないか懸念される。ロイにはうまくやる策があるようなので、この件は彼に任せるのが良いだろう。しかし、ロイはこのままニブル研究から手を引くつもりなのだろうか。グングニル機関の運営や空の亀裂を塞ぐ方法論などは我々の分野ではないように思うが……彼にはそういったものの方が合っているのかもしれない。
「待って」
何が書いてあるわけでもない、やはり白紙の頁でナギのストップがかかった。
「待って。待って待って待って待って。追いつかない。何の話? 何が塔の地下に……地下って、ここよ?」
「そうだね、ここ。まだ下があるみたいだし」
「待ってよ……。その、鶏が、ここに監禁されているってこと? いつから? 今も? 今も……この下に、居る……って、こと」
「見てみないと分からない」
「外殻って何……ファフニールはそもそも魔ガンでもないって……そういう……」
シグが答えなくなった。当然だ、彼が全てを知っているわけじゃない。ナギ自身も何が言いたくて口を動かしているのか分からなくなっていた。この古い日誌に淡々と綴られた闇は、まるで希望の光のように扱われていた。それが頭の先から爪の先まで、流れる血が逆流したかのように気持ちが悪い。
結局日誌はその後、白紙のまま終わっていた。シグが丁寧に棚に戻すその横で、ナギは同じ列にあるファイルを片っ端から抜き出した。
「ナギ、ちょっと」
鶏の詳細な経過報告──数冊に渡るわりにはどれもこれも似たようなことが書いてある。鶏の細胞と別個体のニーベルングの細胞比較、解体ショー、解剖結果──どうでもいい。ムスペル地区のニブル病患者の病理解剖──ニブル成分の報告ばかりが成果として挙げられている。その猛毒性、致死性、そして細胞変化を促す神秘性、全てがここには財産として記された。
ナギが探しているのは狂人が愉悦に浸って残した記録などではない。“ファルニール”があれから出てこない。一心不乱にファイルに目を通した。その甲斐あってか、求めていたものは出番を待ち焦がれていたかのように無防備に目の前にやってきた。
「イーヴェル区における、魔ガン【ファフニール】の実験、結果」
探していた単語が全て綺麗に出揃ったので、声に出して読んだ。どれもこれもなじみ深い単語ばかり、なのにそのどれもがわけのわからない異国の言葉のように響いた。
「前回同様、137名、すべてニーベルング、化。Bルート進化は確認できず。……イーヴェルは放棄。……ガンナー異常、なし」
かいつまんで声に出した。異国の言語、知らない単語、それを恐ろしいものだと感じるのは本能からか。
パンドラの箱から闇は勝手に飛び出さない。溢れ出ることもない。それらはひとつひとつ丁寧に、蓋を開けた者が取り出していく仕組みだった。
「837年詩の月、1日、ミドガルド郊外における……」
837年詩の月1日──頭の中のカレンダーがひとりでにあの日に戻っていく。戻りたがっていた。誓願祭の夜にサクヤがくれた特別でも何でもない言葉たちを、何度でも拾いに行ってしまう。そしてそれ以外のものを全て、自分は取りこぼしてきた。だから今度は、何一つ見過ごさないように脳内であの日をやりなおす。
疲労の残る身体を無理やり起こして、しっかり朝食を摂った。サクヤの様子を見に医務室へ顔を出し、寝転がったままの横着な彼とスケジュールの確認。イーヴェルの報告書を代筆するため、指示を仰いだ。それから報告書に取りかかり、合間に隊員たちと雑談。重症だと言い張るバルトをアンジェリカと共にケアし、シグを探してうろうろしているところをリュカにからかわれ、サクヤから本の差し入れを頼まれたサブローを手伝った。そうだ、あの日は手が回らなくて、マユリに整備部に行ってもらって魔ガンの調整を頼んだのだった。昼遅くから始まった功労賞の叙勲式には、サクヤを除いた全員が出席した。あれも全員揃えるのにわけのわからない苦労をした覚えがある。確かに究極に気だるい儀式ではあった。
叙勲式を終えた後から翌朝までに起こった出来事、会話した人物、その内容をナギは事細かにやりなおした。本当はそこまで子細に確認する必要などないのだと分かっている。探していたのは、何かの間違いだと言えるほんの少しの可能性だ。しかしそれは、どの記憶をまさぐっても、やりなおしても見当たらない。
もっと早く、いや、はじめから──気付くべきだった。“あれ”は、誓願祭の夜のできごとだったのだ。
「ミドガルド郊外における粛清14名。いずれもBルート進化は見られずニーベルング化。中部第一支部二番隊、三番隊、本部六番隊にて早期討伐完了」
先刻よりも随分落ち着いて読み上げることができた。
「サクヤが調べていたとおり……イーヴェルは、ファフニールの実験で壊滅したんだ。Bルート進化……? 生き残るか残らないかって意味?」
「ニブルに適応する細胞進化、じゃないの。ヘラの生き残りみたく」
「あー……なるほど、そういう実験。実験かあ……撃ったなぁ私。イーヴェルで、何人も何人も何人も何人も……人を撃って、殺しちゃったのか」
それを認めたくなくて、信じたくなくて、サクヤの仮説を根こそぎ否定した。今ならそれがよく分かる。グングニル機関とは、体の良いスケープゴートで殺人者の派遣機関だった。
「別にナギだけがってわけじゃない。そもそも正当防衛だし」
シグは資料棚の横、床上ぎりぎりに設置された排気口のような蓋を手際よく取り外した。更なる闇が広がっている、かと思いきやそこからは白い明かりが漏れていた。少なくとも、今いる地下第二層よりもはるかに明るい。
「行く? それとも帰る?」
お決まりのように馬鹿げた質問をするシグ。
「何が見える……?」
「何も。下に続く鉄製梯子、長いやつ。ランプは要らないかもね」
「先に行っても……?」
「どうぞ?」
ナギが覗き込んだ穴の中は、明らかに人口の物と思われる安定した明かりで満たされていた。入り口がこうだから穴、と一度は称したが梯子はおそらく10メートル以上あり、そこに広がる空間は造船工場かという規模である。
ナギは迷わず梯子の最初の段に足をかけた。壁際、床に垂直に設置された鉄製梯子は、それそのものは頑丈そうだが、あまりにも風通しがよすぎる。緊急用というわけでもないらしい。そもそも使用することが想定されていない梯子なのかもしれない。