シグの様子に変化はなかった。驚愕もしない、不快を顕わにもしない。平静を保つのに全神経を動員しなくてはならなかったのは、むしろナギのほうだった。
「詩の月1日、誓願祭の日。叙勲式の後シグがどこに居て、何をしてたか」
「詳しく話したほうがいいの? それ」
ようやくのシグの反応は、ナギが思っていたものとはかけ離れていた。
たった今、自分はどこまでも場違いな質問をシグに向けて投げた。脈絡はない。そこに脈絡というものが生まれているとすれば、それはナギの質問の意図を正確に捉え、かつ肯定しているということだ。
「シグ……」
「ミドガルドの外れにいたよ。もともとそういう予定だった。何をっていうほどのことは何もしてないんだけど……。魔ガンの引き金引は引いたよ、一回だけ」
シグの様子に、変化はなかった。いつもと同じ、皮肉めいた物言いに落ち着き払った声。ナギの言動を嗜めて、アカツキにコーヒーを頼むときと大差ない態度だ。それが吐き気を催すほどに、ナギの中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。ずれている。ねじれている。シグがいる空間だけが無理やりに裏返ってしまっている。
ナギの視界はぶれていた。焦点が定まらないその瞳の中で、シグがまたいつもどおりにナギの名前を口にする。ずれているのはナギ自身のほうかもしれないと思わされるほどに、彼には一点の動揺もなかった。
シグにはそもそも隠す気がなかった。言い逃れができないから観念した、というような絶望感からくる投げやりな態度ではない。シグはもう随分前から、この瞬間が来ることを知っていた。これが正しい道筋であるとさえ思っていた。だから何の躊躇いもなくナギの手を引いて、グングニルの底までやってきたのだ。
「俺、ここに来るのは初めてじゃない」
シグは視線だけで鶏を指す。
「覚えてるか」
「……ここを訪れる人間はごく僅か、限られている。お前のことは覚えている」
「俺じゃない。お前を助けようとして、ここで撃たれた女のことだよ」
鶏は一拍置いて、覚えているとだけ口にした。イエスであろうがノーであろうが、その回答はシグを満足させるものではない。シグにとっては、眼前の干からびたニーベルングこそが、ねじれの中心だった。
「話して、シグ」
「長いよ?」
今までに味わったことのない虚脱感と倦怠感がナギの全身を取り巻いていた。シグのどうでもいい確認に頷く気になれない。その目を見返す勇気が出ない。
「昔、昔、大昔。まだ俺が生まれて間もない頃、コレを助けようとしたひとりの馬鹿な女がいました。グングニル機関総司令ロイ・グンターの妻、二番隊のホープでジークフリートの使い手、名前はイオリ。イオリ・グンター。……シグ・エヴァンスの母親」
シグはまるで他人事のように話しはじめる。どこか遠い、知らない国の物語でも紡ぐように。
「シグのお母さん……」
その後に続くはずだった確認の言葉を、ナギは無意識に呑みこんだ。その女性がシグの母親であるなら、父親が誰か改めて問い直すまでもない。
「女は何も知らずにグングニルに入隊し、ロイと結婚し、子どもを産んだ。まあつまり、ここにこういうのが幽閉されててニブルもニーベルングも自分の夫が呼び寄せてたって事実ね。そういう事実をわざわざ教えてくれたおせっかいな男がいた。……あの日誌を書いたのは、たぶんそいつだと思うんだけど。まあそれはどうでもいいか。イオリはとにかく馬鹿がつくタイプの正直者だったから、事実を知るなりロイを告発しようとした。けど、当然失敗する。ジークフリートも剥奪されて全くの役立たず状態。……そこで大人しく引き下がっておけばよかったんだろうけど……彼女は謀反を起こした」
シグにとっては記憶とも呼べない遠い昔のただの事実──記録だ。他人から聞かされた、おそらくは真実とは多少の食い違いのあるもの。それでも現在という結果に齟齬が生じないのだから、それは記録として一定の客観性があるものだと信じられた。
一方、その事実を記憶として知っているのが鶏。それも彼にとっては、つい最近の出来事のように鮮やかに思い出せるもの。記憶の中のその女を、鶏は「人間」とは別のカテゴリに分類していた。彼が知る「人間」は強欲で短絡で、利己的で残虐だった。それらの性質をまるまる持ち合わせないその女を、同じ種別として認識するのは間違いだと考えた。
ほんの少し前の記憶を検索する。愚かにも孤軍奮闘する女の姿がありありと思い出せた。
「──あなたを助ける。人間のこと、憎んでると思うし信じられないと思うけど……虫のいい話だって思うかもしれないけど……。どうか元いた場所へ帰ってほしい。ここはあなたの居るべき世界じゃないのよ」
女は、イオリは、彼女は言った。震える腕で、鶏につけられた無数の拘束具と鎖を外していく。女の愚直と献身を、ニーベルングの王はただ冷ややかな目で見ていた。何をたくらんでいるのか知れない。この、一見して何の力もない、地べたを這いずりまわるだけの汚らわしい種族は、智慧だけは恐ろしく進化していることを既に知っていた。己の欲を満たすために、他を欺き、陥れ、一方的に搾取することに長けたおぞましい生き物だ。
「なんで、逃げないの」
「残念だが私はもう飛ぶことができない。お前たちの持つ“魔ガン”とやらで私を撃てば、それですべて終わる」
解放してくれるというのであれば、それが最良の手段だ。王が死ねば、卵は孵る。それで責務は果たしたと言えるだろう。
「本音を言えば私だってそうしたいわよっ。でももう、私には魔ガンがない。私には何の力もないの。だからお願い。飛んで……」
「悪いができない相談だ。この骨子だけと成り果てた羽根を羽ばたかせたところで、身体が朽ち果てるだけ。私を殺さないのであれば去るがいい」
なるほどこの個体は、今までのどの人間とも違った思想を持っているようだ。だからと言ってそれが何になるわけでもない。事態を動かせる力のない弱者。それは囚われた自分も同じであることに思い至ると、少しだけ眼前の女に興味がわいた。
「この部屋には微量とはいえ、私が吐いたニブルが充満している。早く脱出せねば、お前の身体を蝕む毒となるだろう」
「だから……! わかんない奴ね、言葉通じてる!? 私だってそうしたいのは山々だって言ってんでしょうが! でもできない、したくない!」
「……理解しかねる」
「そう? そうでもないと思うわよ。私ね、息子がいるの。とっても頭が良くってとってもかわいくって目に入れたって痛くもないの。分かる? あの子が生きる時代を、血なまぐさい嘘で塗り固めるわけにはいかないのよ。だから──」
この空間に満たされていたニブルは、微量とはいえないものだった。おそらくはそのとき既にイオリの身体を侵食していたはずだ。その弱りきった身体を、小さな鉛の塊が貫通した。視界には見飽きたいつもの「人間」が数名。熱を帯びた鉛の塊は、イオリの身体を通り抜け鶏の皮膚にも届いたが、泥団子を投げつけたように細かく爆ぜただけでニーベルングの皮膚装甲に傷はつかない。
力なく崩れ落ちる女を見て、やはりというかなるほどというか、人間だなと思い直す。呆れるほどに脆弱だ。
イオリは鶏の足を支えにして、かろうじて不様に立っていた。
「何故立つ?」
仲間に撃たれ、取り囲まれ、勝機は一寸たりともない。理解不能の光景に思わず疑問符がもれた。
「だから……死ぬわけにはいかないって言ってるでしょう、ほんと、鈍い……。あなたと同じよ」
「同じではない。私は死にたいと言ったのだ」
「そうじゃないでしょ。犬死にはごめんだって言ってるの。あなたも……そう、ただで、死ぬものかと思ってる……」