episode xii 神か屍


 この女は心が読める。そういう意味でやはり人間とは言えないのだろうか、と再び混乱をきたす。鶏は分類を諦め、ただ自分と似て非なるものとして認識を改めた。それは永遠とも呼べる長い時間生きながらえるしかなかった鶏の幽閉生活の中では、興味深い刺激物だった。
「そうであるなら、お前も醜く不様に生きながらえるがいい」
 地下に閉じ込められてからほとんど始めて、鶏は大きく深呼吸をした。体力を使う。気力も使う。ただ鶏にとってはその程度の浪費にすぎない。この息を吐くだけで、この空間にいる人間を一人残らず片付けることが可能だ。人間とはかくも脆弱、そして愚かなのだから。


「女は逃げ延びた。その後、女がどこへ行き、どう生きたかは私の知る由ではない」
「……あんたが思うとおり、不様に生きて不様に死んだよ」
 シグの言葉は、実の母親を語るにはあまりにも冷酷なもののように思えた。いや、そうではない──憎悪や侮蔑がそこにないことくらいは、ナギにも分かる。だからこそ違和感がぬぐえないのだ。シグは今自分自身のことを語っている。なのに何故、こうも主観が入らないのか。シグが口に出す言葉は、思えばいつも「外から見ている人」のようだった。
「イオリは、一人息子をつれて知人のもとへ逃げた。彼女に事実を教えたおせっかいな男のところだ。男はニブルの研究者をやめて、ロイやアルバートと袂を分かって、ニブル病の治療者として暮らしていた。結婚して子どももいた。街の人によく慕われる医者であり牧師だった。……俺は母とその街で暮らすことにした。彼女は重度のニブル病を患って、全身木炭みたいに真っ黒だった。綺麗な人だったんだけどね」
 あれ──何かが、頭の隅に引っかかる。
 ナギはシグの話すその光景を、やけに具体的に想像することができた。ニブル病患者もその家族も、健康な者も身寄りのない者も、その牧師は分け隔てなく接し、必要なら治療や施しを買ってでる。自分の娘も重度のニブル病に侵されていたのではなかったか。妻は美しく優しい、笑顔の似合う女性。花が好きだった。その土地では珍しくない、どこにでも咲く白い花が。
「え、あれ……」
 男はニブルの研究者をやめ、ロイやアルバートと袂を分かった。
「そんなはず……」
 街の人によく慕われる医者であり、牧師だった。美しく優しい妻と、ニブル病に侵された娘。──ソノオトコハ、ファフニールヲツクッタ。ソノオトコハ、ヘラインシデントガオコルコトヲシッテイタ。
「……ナギ」
 シグが名前を呼ぶのは「大丈夫か」の合図だ。それで伝わる。ずっとそうやってきたから。ずっとその名を呼ばれ続けてきたから。けれどもう、それすら違和感に変わってしまった。
 カードはずっとずっと前から裏返っていた。全てのカードが断りなく表に返されていくだけ、その過程をナギは黙って見ている。表に返されたはずの、はじめとは別のカードを見つめ続けるだけ。
「あなたは……、……誰……?」
「詳しく話したほうがいいの? それ」
シグは可笑しそうに片眉をあげた。
 この期に及んで、誰ときた。うらやましいほどに、彼女は何もかもを忘れ去ってくれている。どんな魔法を使って、どんな科学でそうなれたのか。うらやましいと思った。だけど妬ましいとは思わなかった。心底良かったと思えた。そう思ってここまでやってこれた。同時に生きる意味はどこかへ消えた。
「俺はすぐに先生……そのおせっかいな元研究者のことを好きになった。先生の奥さんのことも、娘さんのことも好きだった。大人になったら絶対そのコと結婚しようと思ってたからね。子どもの浅知恵なんだけど、とても……好きだった。二人だけが知ってる秘密基地があってさ。白い花が一面に咲く原っぱなんだけど。その花の蜜が、めちゃくちゃ甘いんだよ。……大人の目を盗んでは、そこで二人で花びらばっかりかじってた」
 シグの微笑みは、今まで見たどれよりも哀しくやわらかだった。大事に大事にしまっていた鍵付きの箱から、子どもの頃の宝物を取り出すみたいに。ただ当然のことながら、古い宝物はどうしたって色褪せる。そしてそれは大人になって見返すと、ひどく陳腐なガラクタにも見える。
 一息入れよう。自分とその子をつないでいたのは記憶ではない。そのことをシグ自身が知っていればそれでなにひとつ問題はない、そう考えた。
「優しいキミには桃色ビーンズ、素直なあの子に真っ白ビーンズ。……知ってるでしょ、この歌」
 

 優しいキミには桃色ビーンズ 素直なあの子に真っ白ビーンズ
 元気のない子に空色ビーンズ がんばり屋さんにお日さまビーンズ
 我慢ができたら森色ビーンズ ごめんね言えたら紫ビーンズ
 笑顔になれるよ真っ赤なビーンズ
 七つ集めて幸せビーンズ

 嘘吐きさんには泥色ビーンズ 苦くてがっかり 遠くへなげろ

 願いがかなうよ虹色ビーンズ 集めてもらおう魔法のビーンズ


 シグが流れるように口ずさんだその歌は、ナギにとってとても思い出深いものだった。暇を見つけては父が──おぼろげな記憶の中の──古いオルガンを鳴らして、意気揚々と歌っていた童謡だ。七色集めると願いが叶う虹色のビーンズがもらえるのだという、子供だましの方便を信じて日々お手伝いに明け暮れたものだ。あの頃の願いが何だったかまでは思い出せない。
それでも夢中になってジェリービーンズを集めたことだけは、はっきりと覚えている。
「ナギは、子どもの頃に流行った有名な歌だって言ったよね」
「そう……。昔、教わったの。たぶん父から」
「だろうね。でも誰に聞いても、ジェリービーンズの歌を知ってるやつなんかいないよ。この歌を知ってるのは、世界で俺とマリナだけ。……だってこれ、先生の自作だからさ」
「え──」
 これまでの何を語るときよりも申し訳なさそうに、シグは肩を竦めた。
 夜中に聴こえてきたオルガンの音と、拙い歌声を思い出す。

 ──いいか、マリナには言うんじゃないぞ……っ。んー、あー、そうだな、中央で流行ってる超有名な歌ってことにしよう! うん、それがいいなっ──

 娘のために一生懸命つくった変てこな歌を、その牧師は照れくさそうに教えてくれた。元気がないときに歌いなさいとか、お説教のときに口ずさんでやるとか、そういう他愛のないやりとりと共に、二人で秘密を共有した。男と男の約束だと言われたからには、口が裂けてもマリナに真実を伝えるわけにはいかないと心に決めた。
 そのちっぽけな約束と誓いは守り続けて十年以上になる。もう時効だろう。義理を果たす相手はとっくの昔にこの世から消えている。
「じゃあシグは、私が──だって、はじめから知ってた……ってこと」
ヘラの、という単語と、生き残り、という単語が声にならずに抜け落ちた。
「はじめからじゃない。正確には、あのとき知った」
 グラスハイムの教会で思いきり寝過ごした、あの雨の日。ナギがずぶ濡れで避難してきて、何も聞かないでほしいと言ったあのときに。ナギが、ジェリービーンズの歌を口ずさんだから。