episode xii 神か屍


「なんで俺がお前を楽にしてやらんきゃならないんだよ。助けもしないし殺しもしない。苦しみぬいて不様に死ねよ」そう言って、この見るに不快な磔のニーベルングに侮蔑の眼差しを浴びせ続けた。
 もし何もかもの責任を誰か一人になすりつけて構わないなら、間違いなくこいつを選ぶ。実際こいつだろう。被害者の皮をかぶった悪魔は。
「なんでよりによって俺がファフニールを撃つのかって、ナギのさっきの質問だけど。……そうやってれば、少なくともファフニールは常に俺の手元にある。そういう状態をつくっておきたかった」
「“復讐”のために?」
鶏が使った陳腐な言葉をナギはあてつけのように口にする。その嫌な耳障りがきっかけになったのかもしれない、シグはナギの瞳を、口元を、指先を、確かめるように見た。
 ああ──流石に今まで見たことのない、向けられたことのない表情だ。それがただ、無性に哀しかった。今までだって、別にとびきりの笑顔をくれるわけではなかったけれど、それでも。
「母が死んだ。先生も死んだ。俺もマリナも、ヘラで死んだんだ。あいつらが生きてるのは不自然だろ」
そんな世界は嘘だ。ロイ・グンターが、フェン・アルバートが、そしてアシュレ・ウィンストンが知らず作り上げてきたねじれた世界は、そうやってシグに嘘を吐き続けてきた。
 罪だ罰だ、復讐だ、裁きであり粛清だ、浄化であり審判だ。言い方なんてそれこそ星の数ほどある。どれで認識され、どうやって非難されても構わない。ただねじれた世界を終わらせたいだけだ。
「そんな顔しないでよ。……ナギが悪いわけじゃない」
全部全部全部、揃いすぎていた。良いものも悪いものも特別なものも当たり前のものも、あの頃あの場所で過ごしていた自分は持ちすぎていたのだろう。だからほんの少しの歯車のずれで、その全てが作用して、連鎖して、こうなった。ただそれだけのこと。
「私、は──」
 覚えてもいなかった。思い出しもしなかった。自分が辿る道の全てをシグに押し付けて生きてきた。それさえ知らなかった。
「マリナもライトも、あのとき……死んだんだ。だから俺がナギを憎む理由はどこにもない。……正直さ、ナギのことをマリナだと思って接したことないし」
シグというヘラの亡霊が、ニダの牧場で育ったグングニル八番隊の隊長補佐官を恨む理由は見当たらない。
「もう、いい?」
「シグ……?」
「ここまでだよ、ナギ。パートナーごっこはおしまい。後はそれぞれ、好きなように」
 シグはジャケットの内ポケットから魔ガンを引き抜いた。ヴォータンでもローグでもない、お守り代わりだと言った三丁目の魔ガン。美しい装飾の小さな魔ガン、フリッカ。シグはそれをかけっこのスタート合図みたいに、天井に向けて構えた。
「シグ! 待っ──!」
 狙いを定める必要のない、気軽なトリガープルだった。聞きなれた魔ガンの発砲音と聞きなれない、さざなみのような通り雨のような一瞬の水音が駆け抜ける。それは空気が無理やり上書きされる音だった。何に囚われているわけでもないのに、ナギは身動きがとれなくなった。もともと高濃度のニブルが充満していたこの空間に、更に重いニブルが降り注ぐ。滝つぼに身を預けたようだった。
「ナギならしばらくすれば普通に動けるでしょ。来た道戻れば、たぶん安全に抜けられる。これからここへ完全武装で下りてくる連中は、中央塔の真下にある正規ルートしか使わないから」
塗り替えられていくのが分かる。無色から無色へ。毒から毒へ。ニーベルングだけが生きられる隔離された世界へ。蟻一匹から象まで、一呼吸でニーベルングになる小さなヘラ。
「何するつもり……?」
「最後の一手をうっただけ。……ナギも、そろそろ行ってくれない?」
「ふざけないでよ……! まだ、肝心なことをあなたに訊いてない。……最後にひとつだけ答えて。あなたが、サクヤを撃ったの?」
結局それかと言わんばかりに、シグは苦笑して、それから嘆息した。掲げていたフリッカを静かに下ろす。
 もう一度、深く静かに深呼吸。肺をニブルで満たす。吸って吐く。吐いて、吸う。変化も異常も少しもない。頭痛がひどいのはニブルとは関係ないようだ。強いて理由をあげるなら、ナギが思ったようには撤退してくれないことだろうか。
 話せる時間はそう長くない。この場所でファフニールを撃ったという事実は、直に塔内に広がるだろう。それを狙って撃ったのだから、そうなってくれなければ困る。
「じゃあ餞別に、あの日の話をしようか」
 鶏を閉じ込めるための巨大な檻、その天井を仰いでシグは再び物語を紡ぎ始めた。