episode xiii 裁かれる衛兵,欺かれる奇術師


「今日中に、どうしても君と話をしたい」
 見せかけの柔らかな空気は、サクヤのその言葉を皮きりに崩壊した。が、それを促したのはナギのほうだった。
 アルバ暦837年、年の終わりの剣の月。ナギはグングニル本部ではなく、中部第二支部で新隊員の指導に当たっていた。その日演習の合間に入ったサクヤからの通信、これが彼と彼女の最後の会話である。
「それで構わない。戻るまで待つよ」
 ナギはなんと答えたのか──すぐ戻る? 遅くなる? 間に合わないかもしれない? 傍から見ているだけでは分からない。通信のはじめに世間話をしていたときも、こうして本題を持ちだしたときも、サクヤの平静は崩れることがなかった。
 と、思っていた矢先にふと、笑みがこぼれた。作戦中は元より、非番であったとしてもお目にかかれないような本当に無意識の笑みが。
「ナギ。誓願祭の夜に、君に言ったことを覚えてる?」
しばらく間があって、今度は大笑いだ。声を殺しているのは誰への配慮なのか不明である。
「覚えてるならいいんだ。約束するよ。どっちに転んだとしても、……僕が生きている限りは君を守る」
 なるほど、この人ならこれくらい真面目な顔で言うだろうな──などと妙に納得してしまった。生きている間に限定されているところが、現実的というか生々しいというか、彼らしい気さえした。
「責任を果たすだけだよ」
 サクヤ・スタンフォード中尉にとって──いや、グングニル八番隊隊長殿にとっては、これまでのこととこれからのことは、果たすべき責任という認識になるらしい。くだらない。そんなもののために、生きるか死ぬかをベッドするなんて馬鹿げてる。
 そう思う一方で、シグもまた自分自身がある種の「責任」の下に動いていることを自覚していた。見たもの、聞いたもの、知ってしまったもの、思い、考え、判断してきた全てのものには責任が生じる。そんな単純な言葉で片づけるのは気が引けたが、現実なんてそんなものだ。
「これ以上は通信では話せない。もし間に合わなくても、君は君の思うとおりに動いてくれて構わない。……じゃ、切るよ」
 サクヤが静かに受話器を置くまで、シグは物陰から見届けた。見届け、自分自身の責任のために歩き始めた。ナギが、間に合うことはない。間に合わせるつもりはない。サクヤがそれに一縷の望みを抱いているのだとしたら、とんだ失策だと笑うしかなかった。誰に向けたのか分からない嘲笑がこみあげる。そしてできるだけうまくやってくれと、切に願った。いつも通り幾重にも策を巡らせ、相手の裏をかき、欺き、狡猾に出し抜いてくれと祈った。
 どれだけ世界がねじれていても、ほとんど誰も気付かなかった。この塔と自分はいつもそのねじれの中心にいる。何食わぬ顔でそこに立っている。皆が皆、一様に目を背けてきたその場所を、ただ一人目指してやってきたのがサクヤだった。彼には、そこに至る相応の実力と健全な好奇心と極めて真っ当な倫理観が備わっていた。
 ねじれた世界が正常に戻るならそれはそれで構わない。一度は、いや何度かそれはシグも望んだことだった。何なら今だってそう望んでいると思わなくもない。つまりはシグにとって、正常な世界の復帰という結末は、正しいだけのどうでもいいものに成り下がっていた。多大な犠牲を払ってまで達成すべき目的ではない。目的は、別にある。


 演習塔の最上階に、八番隊と一番隊共用の室内訓練場がある。基礎訓練や格闘訓練のためのスペースで、その性質上、共用とは名ばかりの八番隊専用部屋である。射撃場程の設備や防音性はないが、射撃もやってやれないことはない。そういう、シグが落ち着ける要素を兼ね備えたのがこの場所だった。ほとんど常に人気がない、というのはポイントが高い。
 その日も筋力トレーニングと精密射撃を二時間ほど行って、夕暮れまで時間をつぶした。窓の外が薄紫になったのを確認すると、大きく一息ついて端に備え付けられたロッカーまで歩き、扉を開ける。ヴォータン、ローグの手入れを済ませ、掛けておいたジャケットを着直す。その内ポケットに改めて“フリッカ”をねじこんだ。小振りの装飾魔ガン。心臓の一部のように、常に左胸付近にその重みを感じる。
 ロッカーの扉を閉めた。シリンダーの鍵をまわしたところで背後の気配に気づいて振り向いた。
「非番時の魔ガンの携帯は認められていないんだけどな。“それ”を持ってこんな時間にどこへ?」
 来た──分かっていたはずなのに、鼓動が一度、大きく脈打った。
 入り口ドアを背にして、サクヤが立っていた。口調はいつも通り穏やかだったが、笑みを携えていない彼がこんなにも別人の気配を纏えるとは思ってもみなかった。
 シグは軽く肩を竦める。
「これはお守りみたいなものですから。撃っても、ニーベルングには傷ひとつつきませんよ」
「僕の質問はそれの性能の優劣じゃない。それを持ってどこへ行くつもりか聞いている」
 笑みと余裕のない、シグの知らないサクヤだ。駄目だなあサクヤ隊長、もう少し、我慢して外堀を埋めていくのが貴方のスタイルのはずでしょ。それに付き合うくらいの時間はあると思うんだけど。喉元まで出かかった言葉を、片っ端から呑みこんだ。
「……プライヴェートまで答える必要が?」
「うーん……。ないとは言いきれないな。君はもういくつか規則を破ってるからね」
「規則? って、それサクヤ隊長にだけは言われたくないな。今回は見逃してもらえませんか。許可が必要なら後日とります」
「悪いけど、それはできない」
サクヤは調子を変えない。それなのに空気がひとりでに変わった。
「今晩君を見逃して、明日死体のない戦場に赴くのは御免だ」
暗く、重く、息苦しい。ちょうど外の景色が、紫から黒に変わるみたいに。
「死体があれば、満足ですか」
 シグ自身、随分皮肉めいた言い回しだなと思っていた。無意識に挑発していたのかもしれない。鼓動が早い。興奮している自分に気が付いた。数分後にどういう状況が起こり得るのか、それが目に見えているのだから、いっそ何の気兼ねも未練も失くしてしまった方がいい。
「……そういう話をしてるんじゃないよ。シグ、君のやり方は根本的に間違っている」
「俺のやり方ってわけじゃありません。俺はただ、グングニルのやり方を忠実に守ってるだけです」
それに──。
「手段は変えられない。だって昔も今も、これしかないんだから」
 シグはジャケットの内ポケットから“フリッカ”を引き抜いた。否、最初からそんな魔ガンは存在しない。今シグが手にしているのは──手にし続けているのは──“ファフニール”、人を魔物に、この世を地獄に変える、神の卵。
 シグは他の魔ガンと同じように、一分の隙もない動作でファフニールを構える。
「どうしますか、隊長。あなたの敵は俺じゃない」
「そんなことは重々承知しているよ。でもそれが今君を止めない理由にはならない。フリッカ……ファフニールはこちらに渡してもらう。撃ってでも」
「それは俺の台詞です」
 サクヤが懐から引き抜いたのは、彼が愛用する魔ガン・ジークフリートではなく対人用のハンドガンだった。滑稽だ。わざわざ持ち替えてきた? 何のために。魔ガンであれハンドガンであれ、人を殺す兵器であることに何ら変りはないだろうに。
 シグは躊躇することなく引き金を引いた。ヴォータンよりも、ローグよりも手になじむ固い引き金だ。かけっこの合図みたいに空砲が鳴った。空砲に見せかけて、何をも生かさぬ毒が放たれた。
 サクヤの次の一手は苦しまぎれの手元狙いだろう。もしくは足、肩、どちらでもいい。どれだけ至近距離にいたとしても構えれば軌道が読める。そしてサクヤの攻撃は、せいぜい三手、凌げばこちらの自動勝利だ。
「マスク持ってこなかったのは失敗でしたね?」
「そうでもないよ」