episode xiii 裁かれる衛兵,欺かれる奇術師


 トリガープルからのクールダウン、シグは律儀にそんなステップを守っていた。サクヤの声が響いたのは、シグの腕の関節付近。彼は銃を構えなどしなかった。放たれたニブルをかいくぐって、シグの腕をいなす。床にたたきつける勢いだったから、いなすという表現は正しくないかもしれない。
 ものの見事に体勢を崩した。ファフニールをとりこぼしそうになるのを寸前で堪えた。流れる視界の中で、突き出された銃口がシグの耳元で火を噴いた。
(滅茶苦茶だな、この人……!)
 鼓膜が悲鳴をあげた。それを気遣っている暇は与えられなかった。サクヤはまだ硝煙を上げる銃を握ったまま、その拳を全体重をかけて振りおろしてくる。それを両手でかろうじて防いだ。
(そうか、撃たせないために……っ)
そのための近接戦闘、そのための組手、さらに言えばサクヤは零距離射撃が思いのほか得意だったのを思い出した。魔ガンを握れば実質グングニル最強、その謳い文句に偽りはない。ないどころか、魔ガンを握ればだとか、実質だとか、条件設定そのものが不要じゃないかと唾を吐きたくなる。
「ほんと……! 腹立つ人だな、サクヤ隊長はっ……!」
 手首がぎちぎちと音をたてる。張り合っても力負けするのは目に見えているから引くしかない。
 シグは左手を懐にねじ込んだ。当然体勢が崩れる、それを利用してサクヤから振りおろされた拳が脳天を直撃するのを避けた。左肩に激痛。本当にこの男、爽やか好青年の皮をかぶった化け物だ。胸中で皮肉を吐きながら、左手人差し指にかかった金具を引き抜いた。
 弾はサクヤの首筋を少しだけ掠めて視界から消えた。そこから連射すれば一気に形勢逆転できたのだろうが、シグは距離をとって構えるだけにとどめる。仕方なく、ハンドガンを右手に持ち替えた。左肩から腕にかけてがものの見事にしびれている。情けないが深追いはしない。する必要もない。
 サクヤは冷静だった。シグが作った数メートルの距離を詰めるでもなく、そこから今一度、躊躇なく引き金を引いた。二度。シグは転げるように右方へ飛び、ままならない体勢のまま、今度こそ一撃必中のつもりで全神経を右手に集中させた。いつも通りだ。外す気がしない。思い描いた通りの軌道で弾は飛ぶ。
 かくしてシグが放った弾丸は、サクヤの左太腿を撃ち抜いた。一寸の狂いなく、狙い通り。ただそれは、そこまでのシミュレーションにおいての話だ。サクヤは撃ち抜かれた足など無かったかのように全速力で突進してきて、呆気にとられているシグに飛びかかった。
(化け物……っ)
 気道を抑えつけられたため、胸中でなじるしかない。そうでなくてもいちいち同じ感想を口にしてやれるほど悠長な場でもなかった。このまま絞め殺されるのではないかというほど、サクヤに手加減は一切感じられなかった。それも今更の感慨か。
「めずらしく、迷ってたな。さっき」
腕が引かれたかと思うと、今度は銃口を喉元に突き付けられた。確かにこの方が、体力も使わないし話もできて一石二鳥。セオリー通りのマウントというわけだ。
「今更何を、ですか」
「撃つ場所を。迷った挙句、間違えた。この状況で四肢を撃たれて止まる馬鹿はいないよ」
「……止まるんですよ、普通は」
 当人の意志とは無関係に、強制的に崩れ落ちるのが通常想定される光景だ。素直に笑いがこみあげてきた。一番肝心なことがすっぽり頭から抜けていた。サクヤ相手に正攻法が通じた試しなど数えるほどしかなかったではないか。
「……悪かった。ずいぶん長いこと気づかずに、お前一人に背負わせた。俺の不甲斐なさがお前を一人にしてしまった」
「隊長のせいじゃない。俺も結局は利用される側の人間ってだけです」
 この聡明な部外者には、シグが何かを背負っているように見えたのだろうか。悲劇の体現者に映ったのだろうか。それはどうにもサクヤらしからぬ、愚鈍な思考のように思えた。
 人間誰しもが何かに利用されているものだろう。ただし、利用されるだけの人間とそうでない人間の違いはあるが。
「たぶん、あなたも」
何かにずっと利用されていた。はじめからずっと迷っていた。高尚な目的のためではなく、ただ自らの願望のために命を費やしてきた。──みんな同じ。なんだっけ、こういうのを十把一絡げにできる便利な言葉があったはずだ。
 サクヤはいつまでも撃とうとしなかった。かと言って何かをシグから聞きだそうという素振りもなかった。彼のこの場での目的は、ファフニールの奪取とシグの無力化だと思われるから、その大半は果たしたといっていい。後はシグを落とすだけ。その最終局面で、天秤は一気に反対方向に傾いた。
「目の前で知ってる人間がニーベルングになるっていうのは、結構きつい見世物ですよ、隊長」
「……だろうね」
戦闘の合図代わりに撃ったファフニールの一発は、確かに手加減したものだった。それでもこんなに長く粘られる予定ではなかった。その布石がようやく功を奏したのか、銃を握るサクヤの腕が、撃ち抜いた腿が、そしてそれでも笑う口元が暗灰色の物質に変容し始めていた。
「……もしかして、はじめから相討ち狙いでしたか」
「どうかな。本当は、別に狙いがあったかもしれないよ」
それは大いにあり得ることだと思った。
「だったら──」
 喉元の銃口で精神的に身動きを封じられているだけで、四肢はサクヤ以上に自由だった。心臓の一部である、その引き金を引くことほど容易いことはなかった。
 ──徹底的に潰しておく。サクヤが掛けた保険全て、伏線全て、この人がいなくなったあと何一つ機能しないように、ここで絶つ。
 シグはもう一度、ファフニールの引き金を引いた。覆いかぶさったサクヤの腹部めがけて、加減なしに最後まで引ききった。刹那、またはじまりと同じ、空砲めいた派手な銃声が轟いた。崩れ落ちるサクヤに潰されないように、その下から這い出す。
「隊長」
だったもの、と称すべきなのだろうか。迷った末に、もう一度だけ確かめるようにその名を呼んだ。
「……サクヤ隊長」
 応えはない。サクヤはただひたすらに呼吸を繰り返しているだけだった。ぼろぼろと瓦礫のように皮膚が崩れて落ちていく。そこから染み出してきた本当にどす黒い色素に彼の全身が塗り替えられていく。頭の先からつま先まで、心の奥から表層まで。サクヤ・スタンフォードを形作っていた全ての要素が、瞬く間に消えてなくなっていく。
 シグは立ち上がって、ロッカーから二丁の魔ガンを取り出すと早々に訓練場を後にした。どこかで警報が鳴っていた。誰かが何かを懸命に叫んでいた。無意識でも人目を避けて移動した覚えはある。が、覚えているのはそれだけだ。どんな顔でどんな道を通ったかは判然としない。気がついたら塔の外まで歩いていた。そう、漠然と、教会に行かなければという思いがあった。
 歩いている途中に、ふと思い出したことがあった。
「そうだ、ただの……熱心な蛙」
愚直に、一心に、狂信的に、ただ両の足で立つことを願った。他には何も望まなかった。その蛙には妻がいなかった。ただの一人も友人がいなかった。──だから彼の所業を嘲笑う者もなければ憐れむ者もなかった。その蛙に救いはいらなかった。ましてや絶対に手に入らない足元の希望など。
 自分が歩いて来た道、背後からニーベルングの咆哮が轟いた。振り向いて、空の白さに目を見開く。今夜はやけに明るい月。そんな馬鹿なことを思ったのも刹那、今宵が新月だと思いだす。見たこともない純白のニーベルングが、あのどす黒い塔のてっぺんで狂ったように鳴いていた。