この世には、人の姿をした人でない何かが巣食っている。
十一年前のあの日、世界はたったそれだけのことを強烈に、そして鮮明にシグの脳裡に刷り込んだ。柔和な笑顔で踏み込んでくる男、言葉巧みに愛を語る女、公明正大な振舞いの若者、人畜無害な佇まいの老人──見かけに騙されてはいけない──分厚い皮を一枚剥げば、みんな同じ、ただの化け物だ。
*
日付はとっくの昔に変わっていた。
グラスハイム市上空の夜空は、ひしめき合うイーグル級ニーベルングで覆われている。何百という数の暗灰色の身体と翼が上下する、その様は地上からは雨雲が蠢いているだけのようにも見えた。ただ滞空しているだけでは飽き足らず、縦横無尽に飛びまわる者もあり、塔の延長線を中心軸に旋回している者もある。いずれにせよ、空は右も左もニーベルング一色であった。
上空約三千メートルの位置からも、グングニル塔ははっきりと確認できた。塔そのものというよりは、そこに寄生したサギの巨体を参照物体として輪郭を把握できているのだろう。月が地上に落ちたかのように、サギとその周囲だけがおぼろげに明るかった。
ナギはカラスの背から身を乗り出して、変わり果てた空と大地の光景を見比べる。ただ、息を呑むしかなかった。現実離れした現実が広がる。いや、亀裂の向こう側の現実が、この世界を侵食しようとしているのか。
「落ちて死にたいのか。大人しくしがみついていろ」
騎乗マナーを守らない新規の乗客に対して、カラスは律儀にそんな注意をしてしまう。してもしなくても凄まじい風圧で、乗客の身体は自動的にカラスの背に押し付けられた。
「ここに集結してるニーベルングたちは、サギが呼び寄せたんだよね……?」
「半分はそうだろう。もう半分は寄り集まるサギ派を追ってきた鶏派だ」
「えーと……私にはちょっと、見分けがつかないけど。半分はあなたの仲間、ってことでいいのね?」
こうも臨戦態勢に入られると敵だろうが味方だろうが恐怖でしかないが。
「そうだ。私が何かの拍子にむしゃくしゃして、お前たちとの協力関係を解消しない限りは、無茶な行動には出ない。半分はな」
ナギは苦笑いを返すしかできない。大真面目なのか冗談交じりなのか、カラスの発言はいちいちそのあたりが分かりにくいのだ。隣で、黒い包帯を爽やかにはためかせている誰かさんと良い勝負かもしれない。などと、悠長に構えていられたのもここまでだった。
地上でサギが咆哮をあげる。長く、低く、大音量。上空の風をものともせず、広範囲にわたって声は響き渡った。すると、滞空していたサギ派のニーベルングたちも共鳴し、一斉に吠える。これにはナギも、そしてサクヤも思わず耳を塞いだ。
「なにこれ……っ、うるさっ」
「リベンティーナでの、カラスの鳴き方と同じだね」
サクヤのあっさり爽やか塩味風味の言い草に、ナギだけが目を剥いた。聞いたことがあるだとか、似ているね、ではなく「同じだね」。断言である。
(どうしよう……ついていける気がしない)
いや。いやいやいや。諦めるには早い。ここ数年は何度となくそういう感覚に襲われ、その都度適応してきたではないか。半年間のブランクがナギを弱気にさせているだけだ。などと自らを鼓舞するために、人知れずかぶりを振った。
「集合の合図、というわけだ。大将自らが先陣を切るとは、笑わせてくれるじゃないか」
(あなたもやってましたけどね?)
突っ込みが追い付きそうにないので、こちらに関しては早々に諦める。
「これだけ集まっておいて、まだ増えるってこと?」
「咆哮は亀裂の向こうにも響く。あっち側で我関せずとだらだらしている連中も、これを機に腰を上げて参戦してくるかもしれん」
「勘弁して……」
「そうならないように円く──いや、最小限の被害でおさえたいものだ」
そこは言いなおしてほしくなかったところだ。カラスはどこまでも客観的すぎる。そういうところが、サクヤと気が合うのかもしれない。
ナギは横目で、相も変わらず落ち着き払った様子のサクヤを盗み見る。全身に巻いた黒い包帯はところどころ解けかけていて、それが風に吹かれて元気にはためいていた。隙間からのぞく肌も黒い。今さら注視しなくとも、それが重度のニブル病患者の姿であることをナギは知っている。かつては彼女自身がそうだったし、ヘラにはこういう出で立ちの人が少なくなかった。
「どうしたの?」
「あ、ううん。何でも」
さっきユキスズカの丘で話したサクヤは、以前の姿のように見えた──とは言えずに、言葉を呑みこんだ。半分夢の中にいたような曖昧な感覚と記憶だ。自分の都合の良いように視覚と認識をすり替えただけなのかもしれない。
「そろそろ降下しようか。最終確認はいるかい?」
ナギは静かにかぶりを振った。最優先事項は鶏の死守、そのための動きは今細かく取り決めてもおそらく意味を成さない。サギを早急に討伐せねばならないかもしれないし、あるいはこの空のニーベルングを殲滅せねばならないかもしれない。場合によっては、まずグングニル隊員を蹴散らすという、タイムロスを強いられるかもしれない。状況は刻一刻と変化していたから、その都度最短で最善の判断をしていくしかない。
「りんきおうへんに」
「それしか無いからね」
何かの標語みたいに一言一句をはっきり発音するナギ。サクヤは笑いを噛み殺しながらも同意を示した。
滞空しているだけのニーベルングの群から抜け、カラスだけが急降下を始めた。その背にしがみついている人間二人。風圧で目も開けられず、轟音で会話も困難になる。風の音に混ざって爆発音が響くようになった。おそらく魔ガンによる砲撃を受けている。が、カラスが降下速度を緩めるつもりはなさそうだ。
「ねえ! このままだとあなた! ヤキトリになっちゃうんじゃない!?」
臨機応変にとは言ったものの、カラスにはその意図が正しく伝わっているのだろうか。猛烈に不安に襲われたが、今更どうしようもない。
「例えの下品な女だな。魔ガンごときで燃え尽きるほど、私の皮膚装甲はやわではない」
「それはそうなのかもしれないけど!」
確かに、リベンティーナでブリュンヒルデを連発しても貫けなかった皮膚だ。説得力はあるが、グングニル隊員の総攻撃となると話は違ってくるのではないか。
「相手が通常の魔ガンなら、表面がかりかりに焦げるくらいで済むはずだ。僕らは応戦できないし、今は信じて引っ込んでるしかないね」
言っている傍から、一発もろに頭部を直撃したように見えた。衝撃と熱風の残りかすのようなものがナギとサクヤの肌にも刺さる。
「い、生きてる!?」
「問題ない。このまま降下する……が、最終的にどこに着陸すべきなんだ?」
「どこ? どこって、そりゃ!」
──グングニル塔の一階部分、中庭には数多の隊員たちがサギの応戦に汗を流している。そこに再び乱入しようものなら場は大混乱、逃げ場も無い。では塔の屋上か。着陸自体の安全性はぐんと増すが、目指す場所が最下層だということを思えば、ハイリスクローリターン以外のなにものでもない。どうも自分たちは、ねじれの中心地に合流する前から詰んでいる気がする。
唸ったままのナギの隣で、サクヤはあろうことか上半身を起こして下界を覗きこんだ。
「……主塔の五階部分に、僕らが開けた横穴があるはずだ。そこに滑り込もう」
「乗客二名の安全は保障できんぞ」