空気中にびっしりと詰まった砂埃と熱風で視界は最悪の極みである。その中で、ナギは迫りくる床を撃ち続けた。ブリュンヒルデ数発で、床だったもの、あるいは天井だったものは均一性のないいくつかの塊となり、重力に従って落ちていった。同じようにして、もう三つのフロアを貫通させた。三階、二階、そしてたった今、風通しがよくなった一階部分の床。
カラスは降下スピードを緩めることなく、だらだらと落ちていく瓦礫をかいくぐっていく。ナギを乗せたままだが配慮はない。あるとすれば、瓦礫にぶち当って死なないようにだとか、やりすぎて振り落とさないようにだとかの本当に最低限の気遣いだ。おかげさまで現在ナギは、絶賛“ニーベルング酔い”中である。文句を言いたいが、喋ればおそらく舌を噛む。人間と難儀な生き物だ。
「おい。もう少し細かくできないか? 避けるのも一苦労だ」
と、思えば向こうから難癖をつけられた。もっと狙い撃てということなのか、巨大な瓦礫は自ら処理しろということなのか、いずれにせよ、それらを実行に移せる余裕はナギにはない。というよりも、この超高速落下中にニーベルングは何故会話ができるのか。腹立たしいことこの上ない。
ナギの反応がないのと状況が改善されないのとが相まって、カラスは一度大きく両翼を羽ばたかせ宙に留まることにした。今の今まで頭から落ちていたところを、何の断りもなく反転されたのだからたまったものではない。内臓がふわりと浮きあがる、得も言われぬ嫌悪感が喉元までせりあがった。
「脆弱極まりないな……」
「それは、すみませんね……? 落ちてるだけならまだしも、右に左に空中を振りまわされるなんて経験、めったにないもので」
「それが嫌なら精度をあげることだ。それとも瓦礫に頭から突っ込むか方がお好みか? 私は構わないが」
喉元まで出かかった罵詈雑言を、ナギは必死の思いで呑みこんだ。握りしめていたブリュンヒルデの銃口が無意識にカラスへ向きかけたが、それも寸でで堪える。
肺に溜まった気持ちの悪い空気を吐きだすと、確認のために上を見た。現在地下一層、にも関わらず周囲はどことなく明るく、開放感さえあった。グングニルの塔の三階より下は、フロアの一切を失って、がらんどうと化していた。だから今はるか上方に見えている天井らしきものは、四階のそれということになる。自分で壊してきたのだが、爽快という感覚はない。あるべきものがそこにないという光景は、喪失感と虚無感しかもたらさない。見慣れた光景であればあるほど、だ。
「感傷に浸っている場合でもないだろう。どのみちこれで最後だ」
適当に相槌をうって、撃つべき最後の「地」を見下ろした。
「実はいくつか問題がある」
「……なんだ」
「どのあたりに鶏がいるのか、よく分からない。もし間違えて真上を撃ち抜いたら……」
それでブリュンヒルデの一発が鶏に直撃しようものなら、あっさりとゲームオーバーになる。そうでなくとも、瓦礫のあたりどころが悪ければそのまま絶命するかもしれない。それほど弱っていた。生きているという事実の方がよほど不思議なくらいに。
「……」
「……」
妙な沈黙が訪れた。妙ではあるが、必然の沈黙だった。問題点を述べたからと言ってカラスが解決策を提示してくれるなんてことがあるはずもないのだ。
「ヘラの生き残り、だったか」
「はい?」
「お前は生まれながらにして運が良いのだろう。もしくは魂がしぶとい。そうでなければ、お前のような行き当たりばったりの人間が、こんなところで無傷で私の背に乗っているはずはないのだから」
「そういう……言われ方をしたのは、はじめてかも」
「皮肉を言ったつもりはない。不服だったのなら詫びよう」
「や、そういう意味じゃなく。……そうね、私は……いつも守られていたんだと思う」
父に、母に、レイウッド家の人たちに、そして八番隊の誰もかれもから。
「そういう人間にことごとく出会ってきたというのは、運が良いということだ」
随分乱暴な論理だと思った。カラスは確率が高かろうが低かろうが、今背に乗せている脆弱な人間に頼るほかない。この床を、ブリュンヒルデで撃たないことには始まらないからだ。そのためなら甘美な嘘もつくだろう。情にもうったえるだろう。しかしこの乱暴で青臭い論理からは、それを吐く黒いニーベルングからは不思議にそれらを感じない。
「そうなのかもしれない」
フロアの中央の床に向けて、ナギはブリュンヒルデを構えた。
「あなたという腹心のいる、この下の王様もきっと、相当に運が良いんじゃないかな」
カラスはただ鼻で笑っただけだった。ナギはそれを合図代わりに、いつもと同じように引き金を引いた。
手応えはすぐに、地鳴りと熱風という目に見えない形で返ってくる。やることは先刻と変わらない。自らが開けた大穴に向かって、自由落下する瓦礫をかいくぐって飛び込んでいくだけだ。この時点で早いとは思いつつ安堵の溜息をもらしていた。鶏の安否は確認するまでもない。それを証明する唯一にして絶対のものを、ナギは懐に隠し持っている。
「最高のポジションじゃないか。探しまわる手間も省けるというもの」
三階から地下二層までが、一続きになった。彼らが悠々と降り立ったこの深淵部にも、外界の明かりが降り注ぐ。もともと人口の明かりで満たされていたわけだが、それとは完全に別種の淡く穏やかな星の光だ。
鶏は穴から数メートル離れた壁際で、変わらず最低限の呼吸だけを繰り返していた。ナギとシグが訪れたときと変わらず、サクヤが取引をもちかけたときと変わらず、シグの母・イオリが撃たれたときと変わらず、グングニルの塔が自分の真上に聳え立った日から何一つ変わらず、ただ呪いを抱いて生きていた。
ナギとカラスは振ってくる瓦礫を避けて、舗装の息届いた平らな地面に足をつけた。ナギは数時間前にここを訪れたばかりだ。気まずさも相まってか鶏にもカラスにも言葉をかけなかったが、件の両者までもが無言であるのはどういうことだろうか。気まずさに拍車がかかるだけだ。助けを求めるように、カラスに視線を送った。
「事情を説明するのに、少し時間がかかりそうだ」
「だったら早く話してよ……」
「言ったはずだ。我々の意志疎通に音声言語は必須ではない」
カラスは苛立ったように周囲のニブルを吸い込んで、あてつけがましくナギに吹きかけた。無論、そんなものは彼女にとっては単なる生ぬるい風でしかないのだが、その無意味な行為が腹立たしさを助長した。青筋がひとりでに浮きあがる。
無音、無表情、身体的動作一切なしの異様な会話がしばらく飛び交った(あくまでナギの想像の話だ)。その間を、ナギはひとり覚悟を決めることに費やした。サクヤから託されたものの感触をジャケットの中で確かめる。触れただけで重い。信念が、思想が、欲望と責任が、幾重にも折り重なって手の中にある。
ナギは意を決して、それを引き抜いた。魔ガン「ファフニール」──全てのねじれの起点。始まりと終わりの空砲。世界を塗り替える力。たった一人が背負ってきた、神の呪いの卵。