episode xvi 星月夜


 君の判断に任せる──ユキスズカの丘で、そう言ってサクヤはジャケットの内ポケットからファフニールを引き抜き、ナギの手に握らせた。
「鶏を地下から救出するには、彼自身に飛んで出ていってもらうしかない。いろいろ想定してみたけど、あの巨体を人の手で移動させるのは不可能だ」
「つまりはこれで……鶏を撃って、回復させるみたいなこと?」
「みたいなこと、だね」
 理屈はすぐに理解したが、ナギの表情は浮かないままだ。そのうちに苦虫をかみつぶしたように眉根を潜めはじめる。
「それはそんなテンプレート通りにいくものなの? ……私も、アレを見た。けど……」
 とてもじゃないが、再び飛べるようになるとは思えない──という言葉を、ナギは音声にしないまま呑みこんだ。カラスの前で直接的な表現を使うのは躊躇われる。
「ファフニールには、常に極限状態までニブルがチャージされてる。シグはそれを小出しにして暴発を防いでたんだ。その微量で、イーヴェルは地区ごとニーベルングの巣になった」
「言いたいことは分かる」
 サクヤの言うことは理に適っている。ファフニールの中身──エッグは、ニーベルングの生命の源だ。新も旧もない世界そのものでもある。その力とニーベルング一体の命なら、規格外サイズだろうが何だろうが充分につり合いがとれる。寧ろお釣りがくるほどに容易いことなのかもしれない。
 理屈は分かる。それでも手にしたファフニールから感じる重圧は、理屈だけではぬぐえない。
「ナギがやるのは、ファフニールの引き金を鶏に向かって思いきり引くことだ。ただ、それは僕が思う手段であって君がやらなくてはならない使命じゃない。だから──」
 サクヤの中で言葉は慎重に吟味されたはずだった。その上で彼はもう一度同じ言葉を口にした。
「君の判断に任せる」


 ナギは思い返して苦笑いをこぼしていた。それが「やれ」と言われるよりもよほど残酷な命令であることを、サクヤは当然知っていただろう。
 人智を超えたものを操るとき、人は人であることを放棄するしかない。実父であるアシュレが、グンター司令が、フェン教授が、そしてシグがそうしてきたように。それが唯一にして絶対の代償だ。その上で、サクヤは選択をナギに委ねた。
 どこにでもあるような装飾のその魔ガンを、ナギは感慨なくしげしげと眺めた。手渡された瞬間を含めてたったの二度しか握っていない、それなのに妙に手になじむ感覚がある。
(ブリュンヒルデと似てるのかもしれない)
 ジークフリートにも、ヴェルゼにも、あるいはローグやヴォータンとも似ている。全ての魔ガンとどこかが似ていて、そして何かが決定的に違う。魔ガンのプロトタイプとしてファフニールが知られていたのは、この妙な感覚のせいなのかもしれない。
 神聖な儀式のようにおもむろに、引き金に指をかけた。それだけで、身体中のありとあらゆる水分が冷や汗になって流れていく気がする。急激に冷えた身体は眩暈を引き起こし、ナギの視界にあるすべての輪郭をぐにゃりと歪ませた。
 記憶の中のシグはこの引き金を、何でもないように引いた。ルーチンワークのひとつだと言わんばかりに無造作に引いた。その姿に自分を重ねることはできない。
「ニーベルングと人間では、そもそもニブルの持つ意味が違う。それを鶏に撃つという行為に、背徳感を持つ必要はない」
 いつの間にか概要説明とやらは済んだらしい、カラスがいささか的外れな助言をくれた。そのずれた気遣いが今は嬉しい。礼を述べる代わりにナギは穏やかに微笑ってみせた。
「大丈夫、わかってるつもり」
「ならば私がかけられる言葉はもうない。王の同意は得られた。後はただ粛々と、お前の役割を果たすがいい」
 驚くほど偉そうな言い草に、こみあげてきたのは怒りではなく笑いだった。おかげで肩の力が抜けたのが分かる。背伸びをして、無理をして、わかっているつもりだったものの輪郭がはっきりと見える。
 ナギが抱くこの畏れは、善悪の概念がもたらすそれではない。
 「これ」は、人が持ってはいけないものだった。識ってはいけないものだった。御することなど、できようはずがなかったのだ。今ならそれがあたりまえに分かる。この畏怖心は、人が人としてはじめに持たねばならないものだった。
 今自分はどうしようもなく震えている。それは人としての正しさの証明だと、思うことができた。うるさく鳴り響く心臓の音。命の証。この音がある限り、人は人として客観的に生きていると証明できる。生きているつもりがないと、彼は言った。けれど抱きしめられたとき、その身体は確かに温かかったし、その心臓は確かに鼓動を刻んでいた。たったそれだけのことを伝えるために、もう一度シグに会わなければと思った。
 カラスの背に飛び乗ろうと肩を翻す。そのとき、地面に落ちた白い何かに気が付いた。がくから上のユキスズカ草の蕾、ファフニールの受け渡しの際に懐に紛れこんで、ここまでついてきたのか。ナギはそれをつまみあげると、普段は何も入れない胸ポケットに収めた。
 鶏は、餌を欲しがる無力な雛のように、その大口を開く。
「今から貴方をファフニールで撃つ」
「あの青年との取引は、すでに成立している。……私がお前たちに異論を唱える道理は無い。科せられた責任のみを果たすとしよう」
 鶏の無機質な言葉は脳内に直接響く。ナギもまた静かに頷いた。もう既に、人差し指は引き金に張り付いて離れない。震える右手をなんとか制するために、左手を全力で添えた。生かすために、生きるために、ねじれを解いて正すために。ナギは、鶏に向けてファフニールの引き金を引いた。
 鼓膜を震わせたのは金属が触れ合う微かな音だけだった。そして視界が刹那、陽炎のように揺らめいた気がした。違和感と言えばそれだけである。全ては無音の中で処理されていく。気を抜いた覚えはなかったが、ナギは膝からくずれて座りこんだ。
 刹那、地下に突風が巻き起こる。ニブルを纏ったその風は、鶏の両翼の羽ばたきによるものだった。骨格むき出しの薄っぺらい翼、枯れ枝のような手足、何も変わったようには見えない。しかし、鶏は猛々しく一度咆哮を上げると今にも折れそうな長い首を縦横無尽に振り回し、取りこぼしたニブルを吸い込んだ。厚みのない胸が上下する。
 ナギはカラスの背から落ちないように無我夢中でしがみついた。
「上出来だ。後は私が先導し、サクヤの元に導こう……と、言いたいところだが」
カラスの翡翠の瞳がぎょろりと動き、その矮小な影を映し出す。
「招かれざる客の登場だ。この場合は、招かれざるホストか? 難しいな」
 カラスのように言葉遊びを楽しんでいる余裕はナギにはない。が、なかなかどうして、そのたとえは的を射ている。あれだけ滅茶苦茶に破壊してきたフロアのどこを通ってくれば、こんなにも容易くこの場所へ辿り着くことができるのだろう。聞いてみたくもあったが、その質問は呑みこんだ。シグの言っていた正規ルートなるものを、ナギは結局知らないままだ。
 ナギはその人影に警戒心だけを向けた。わけのわからないこじつけで銃殺刑にされそうになった恨みは、数時間で消えるものではない。男──グンターは、鶏の羽ばたきに煽られながらも、何か眩しいものでも見るように目を細め片手をかざし立っていた。無視するわけにもいかないからまた一旦大地に降り立つ。カラスはナギの風避けになるよう片翼だけを広げた。
「ニーベルングを従えてここまでやってくるとは、魔女そのものだな……」
「彼は私に従ってるわけじゃない。そんなことは、あなたなら分かるはずですが」
「……ちがいない」
この期に及んで自嘲の笑みなど漏らせるのだから、その泰然とした態度は一定の評価に値する。だからというわけでもないが、カラスは手も口も出さず様子見に徹することにした。本音を言えば、これは今すぐに八つ裂きにすべき人物だと認識している。だが、ここは回りくどい人間たちの流儀に合わせて、ナギの顔を立てておくことにした。などと思った矢先、ナギはグンターに向けて無造作にファフニールを構えた。