last episode 8番目の扉にノックを


 光のない世界を一人きりで歩いていた。落ちていたマッチの明かりで足元を照らせることを知ると、その火が消えてしまわないように必死に守り続けた。小さくていいからランプが欲しかった。ただこの灯火を守るためだけのランプが。 
 ランプを手に入れると、周囲がよく見えるようになった。自分が居る場所が、今も昔もこの先もずっと、延々と続く、常しえの闇だということを知った。進むしかないから進む。理由といえばそれだけ。冷たい壁に手をついて、仄暗い階段をおそるおそる下った。途中にあった古ぼけた、けれども頑丈そうな扉は、そのどれもが開け放たれていて中から見知った誰かがこちらを覗きこんでいた。
 ふと前を見る。全然知らないような、よく知っているような、とにかく矛盾した印象の女が歩いていた。ひとつひとつの扉の前で立ち止まって、かぶりを振ったり謝ったりしながら、静かに丁寧に扉を閉めていく。すがるような目の母に、空ろにこちらを見つめる父に、無邪気に笑うたくさんの小さな友達に別れを告げる。鍵はかけない。哀しくて愛おしい記憶として大事にしまうだけだ。
 放っておけばいいのに──思ったことが溜息になって漏れた。そのせいで女が気付いて振り返る。手元のランプが彼女のはにかんだ笑顔を煌々と照らし出した。
「つなごうか」
 気付いたらそう口走って、空いた方の手を差し伸べていた。ナギは少し考えてから、シグのその手をとった。それがちょっと、いや、かなり予想外だったから、反射的に握り返してしまう。つなごうという提案をしたのだからこの方が自然だし、思わずというか、深い意味はない──などと説明するのもわざとらしいので黙っておく。
 知ってか知らずか、ナギは小さく「やっぱり」と呟いた。
 手をつないだまま二人で階段を下った。足音は聞こえないのに、他のいろんな音は折り重なって響く。懐かしいオルガンの音色、ジェリービーンズの歌、魔ガンの発砲音と爆発音、ニーベルングの咆哮と断末魔。行き当たる扉の中では似たような光景が繰り返されていた。二人は並んでそれを見た。黙ったまま見つめて、通り過ぎた。同じ風景を見て同じ行動をとっていたはずだった。そんなふうにして時間を共有しながら、その実なんの感情も分かり合わないままでここまで来てしまったのかもしれない。
「でも、もう分かる」
 ファフニールを手にしたとき、ナギは全てを理解した。世界の理や命の意味、そういう極めて重要で難解なものも悟ったような気がしたが、割と躊躇なく脇に押しやった。そんなことよりももっと大事なこと──はじめて、シグの気持ちを理解したように思った。
 この冷たい大きな手は、ナギのための救いではない。ひとりぼっちで生きてきた少年が、助けを求めて伸ばした精一杯のSOSだった。


「シグ!」
 怒声が耳元で鳴った。その聞き飽きた金切り声で白昼夢は終わり。現実は静寂だの沈黙だのとは無縁の喧騒にまみれている。
 ミサゴの着陸はこの状況下でも見事に安定していた。ほとんど無駄な振動もなく、ナギたちが集まっている場所へピンポイントで滑り込む。
「うわー! もう超ギリじゃんっ、ありえん! ……っていうか俺の名前も呼べよ、なんなら一番活躍してきたっつーの! 腹立つわー!」
こちらも耳元で喚いてくれる。あまりの声量に傷という傷が疼いた。おかげさまでというか、痛みで意識は鮮明だ。不平を垂れ流しながらも、リュカはしっかりナギとハイタッチなんかかわしている。
「で、作戦は? じたばた降って来るでっかいゴミを集中砲火だっけ?」
「グングニルキャノンだよ、リュカさん。今つけたんだけど」
「なんだそれっ! かっこよすぎるだろ……!」
徹夜明けの謎のハイテンションでマユリとリュカは手を取り合って跳ねている。そういうのにはまだ早いのだが、これといって制する理由もないからほったらかしておく。そんなものに構っていられない、というのが本音だ。
 グングニル隊員は皆、一様に空を見ていた。月はもとから無く、星は夜の終わりを告げるように姿をくらました。かと言って朝陽と呼べそうな確かな存在があるわけでもなく、空は何の感動もない灰色一色だ。その中でサギは徐々に高度を下げながら喚き、暴れた。失った両眼の苦痛でこの世のものとは思えない悲鳴をあげてのたうちまわっていた。どこまでも白いニーベルングの存在感と威圧感は、白んできた空では儚いものだった。あれだけ周囲を飛んでいた取り巻きのニーベルングは一体も見当たらない。
「あっけないもんだな。結局はセオリー通りでうまくいくんだから」
 サブローはぼやきながら、付き合いの長くなってきた魔ガン「フライア」を空に向けた。
「お腹の中にまだラインタイト残ってんのかな? あんまり高度下げられるとこっちも危ないね?」
マユリは「ノルニル」を、その隣でリュカは「ヴェルゼ」をそれぞれ構える。かけっこの合図みたいに、正しく垂直に。
 誰かが何かを指示したわけではない。空を見ていたグングニル隊員たちは皆、次々と自らの魔ガンを上空に向けて構えた。利潤と保身を第一としてきた一番隊、狙撃特化型の癖に参加したくてたまらない三番隊、支援専門でやってきたせいか素人のような構えの五番隊、組織の歯車であることを自認しながら、その実どの隊よりも数の恐ろしさを知っている六番隊──この場に居合わせた誰もかれもが天を見据えて引き金に指をかける。誰の命令でもなく、作戦でもない。グングニル隊員として駆けてきた日々と経験が、彼らを正しい一つの回答に導いただけだ。
「これだけの人数からこれだけの魔ガンを一身にくらうってのは、ラスボス冥利に尽きるってもんだよなあ」
「あんたたちは見ててもいいわよ? どうする?」
 バルトがしみじみと照準を定める横でアンジェリカは嫌らしく笑っている。ぼろ雑巾さながらのシグと、ナギの真っ赤に腫れた右手を見てこれみよがし肩を竦めてみせた。
 ナギは、自分の右手には見向きもせずに周囲の、異様で、どこか滑稽で、そしてそれ以上に荘厳な光景を瞼の裏に焼きつけた。そして自らもおもむろに、両手を添えてブリュンヒルデを掲げた。それを他人事のようにぼんやり見上げるシグ。
「……ちょっと」
「何? 俺はいい。そもそももう弾がない」
「じゃあ手伝って。私もう身体がブリューについていかない」
「はあ? だったら撃たなきゃいいのに…・…」
言いながら、そういうわけにもいかにだろうことは分かっている。しぶしぶ立ち上がってナギの身体を支えた。相変わらず鉛筆の芯みたいに細い。よくもまあこれで、今の今まで最高レベルの魔ガンの反動に耐えてきたものだ。
「音頭は私がとっても?」
命令ではないから先制でも合図でもなく、音頭。その緊張感の無い単語選びにアンジェリカが苦笑する。
「いいんじゃない、ブリュンヒルデが一番目立つし。先越されないように撃ったら?」
 ナギは頷く代わりに微笑を返して、一呼吸だけ置いた。そしてシグに目で合図すると、ブリュンヒルデの最後の引き金を引いた。
 花火があがった。ひとつめの特大花火をかわきりにいくつもいくつも、夏の空を彩るために音を立てて咲く。地上で灯った流れ星が空に帰っていくように、全ての光がサギを目指して弾けて飛んだ。新月に輝く偽りの月は、耳をつんざくような破裂音と何をも排除する突風を巻き起こして大爆発すると、空の塵となって消えた。
 ナギたちは、暫くの間馬鹿みたいに呆然と、漠とした空を見上げていた。
「終わった……んだよな」
誰かが終止符を打たないとこのまま全員で首を痛めるだけだ。情緒を解さない嫌な役回りだとは思いながらも、サブローがそれを買って出た。周りを見渡せば、未だにぽかんと口を開けて上を向く連中ばかり、反応はない。サブローごときの呼びかけでは、彼らの抜け出た魂を押し戻すきっかけにはならないようだ。どうしようかと次の手を模索する最中、
「……シグ」
ぽつりとナギが呟くのが耳に入った。やばい。根拠はないがそれだけは何となくわかる。自分が呼ばれたわけでもないのに頭の先から足の先まで悪寒が走った。