last episode 8番目の扉にノックを


「ナギ、ちょ、待っ、一回冷静になろ。なっ」
サブローがいくら急いで取り繕ったところで、肝心のシグが無防備で座り込んでいるのでは助けようもない。ブリュンヒルデの発射台代わりにされ吹っ飛んだ挙句、残ったもう片方の奥歯まで失うことになるのか。本人も覚悟の上だったとしても、見ていられない。サブローが目を逸らした次の瞬間、シグは本人を含めた全員の予想どおり背中から地面に思いきり倒れ込んだ。
「わああああ! シグ! 生きてる……か、あれ?」
視界の隅で、倒れたシグだけを目撃したリュカが咄嗟に悲鳴を上げた。他の者はみな無言で、その状況を見守っていた。ナギは殴っていない。ただ思いきり、加減もなしにシグを抱きしめたらこうなった。
「生きてる、ちゃんと」
 図らずもリュカの問いにはナギが答える結果になった。リズムを刻むシグの心臓の音に耳を澄ます。
「生きてきたんだよ、シグ。嘘じゃない、何も。あなたにそのつもりが無くても、私がそれを知ってる。みんながそれを、知ってるから」
 シグは黙っていた。元から満足に動けないのに、今は指先ひとつ思うようにならない。仰向けのまま空を見るしかなかった。
「だからいい加減分かってよ……!」
 すがるようなナギの声がする方に、シグは少しだけ頭を動かした。どうやらまた泣かせてしまったらしい、ナギが泣くと問答無用で全員が敵にまわることを思うと、殴られた方が幾分ましだったような気もしてきた。
「シグ、お前」
 ほら──ほらほら。今回はバルトがさきがけか。それにしては、妙に落ち着いた声だった。
 頬が水に濡れてかすかに冷たい。ナギの涙の雫だと思っていたが、彼女の後頭部は自分の心臓の真上にあったからそれは妙な話だった。雨か、と思ってまた空を見た。そのせいで一番乗りで空の異変に気づく羽目になる。思わずあげた「あ」の一言で、皆の視線も空に集まった。
 見上げた彼らの視界全てを覆い尽くす灰色の群れ、うねりながら集まって隊列を組み、大河のように、ひとつの大きな流れになって西へ西へと飛んでいく。その中にハヤブサとミサゴの姿もあった。ニーベルングが一斉に飛び立つ凄まじい光景を目にして、何人かが動揺を隠せず噎せていた。
「すっげぇな……なんだこれ。どこにこんなに潜んでたんだよ」
「みんなおうちに帰んのかねー」
「私たちが空気なしでは生きられないように、ニーベルングもニブルの霧の中でないと生きられないってわけ」
「はー俺たちも帰りてー」
「宿舎吹き飛んだけどな」
「っていうか、そもそも職を失ったってことだよな俺たち。どうすっかね、これから」
 八番隊に限らず、グングニル隊員なら当然この光景に想いを馳せるものだ。釘付けにもなるだろう。しかしシグにとってはそれは単なる大名行列でしかなかった。強いていうなら、雨は降っていないという事実の方が彼にとってはよほど重要なことだった。
「息しづらい……どいて」
皆の注意が一斉に空に向いたのをいいことに、「体勢を立て直す」ことにする。ナギが起き上がるのに合わせて、シグも無理やり上半身を起こした。そしてそのまま顔を見られないようにナギを抱きしめた。空を見ようが地面を見ようが、シグの頬は何かが流れて冷たかった。
 頭の中では同じ言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。生きてきたんだよ、シグ──ここにいる彼女が、みんながそれを知っている。認めてくれる。証明してくれる。自分が生きて今ここに存在することを。たったそれだけの事実に涙が止まらなかった。抱きしめているのか、抱きしめられているのか分からなくなるほどに全身が熱かった。
 すぐ傍にいるよく知っているはずの声が、凄く遠くにいる誰かの声に聞こえる。
「凄い光景ね……」
「ほんとに。なんか、今までやってきたことが全肯定されてるのか全否定されてるのか、分かんなくなりますよ」
「? 何の話? 私が言ってるのはそっちじゃなくて、こっち。全隊員の前でよくやる」
「こっち? ……って、うぉい! 何やってんだお前ら!」
今度こそ、バルトが割って入ってひっぺがえされた。ナギは涙でゆらゆら揺れる視界で、自分たちが目いっぱい注目されていることを悟ると、今さらだとは思いつつ一歩後ずさった。そうしたことで今度は静かに涙を流すシグが目に入る。つまらない恥辱心が一気に吹き飛んだ。
「シ、シグ……大丈夫……?」
「いいからナギ。シグは俺の胸使え、ナギのは駄目だ」
「待った。バルトの鉄板みたいな胸で泣いて誰が喜ぶのよ。シグ、こっち。私の方がナギより居心地はいいはずだから」
「なにそれ……どういう意味」
 バルトとアンジェリカが何故かシグの奪い合いを始めたので、ナギは一旦退きさがることにした。皆に出遅れること数分、空を見上げることにする。同じように隣で、随分つまらなそうに空を見上げる女がいることに気づき眼を見開く。
「ユリィ隊長……!」
 先刻バルトにそれとなく密告していたのは、確かに彼女の声だった。周囲には三番隊の姿もある。彼らを順に確認して、ナギは安堵と喜び、そして言いようのない気まずさの入り混じった複雑な心境になった。従って、そういう曖昧極まりない表情になる。
「何、その顔」
「いえ……その。大変でした、ね」
「そうね。正直死ぬかと思ったわ」
涼しい表情でさらりと言ってのけるユリィだったが、彼女を筆頭に三番隊隊員の顔は皆一様に泥まみれ灰まみれだった。何かの実験で大失敗をやらかしたような古典的な爆発頭の者もいる。彼らは各々に演習塔、宿舎塔を狙撃ポイントとして確保した後、援護射撃をしてくれていたらしい。言うまでもなくどちらの塔もサギのラインタイト砲で木端微塵になった。
「ナギさんたちも、他人のこととやかく言えるような状態じゃないみたいだけど」
ユリィがちらりと見やったのは、もはやゾンビ色としか表現しようのないナギの右手と、物理的にも精神的にも立ち上がれなくなったシグの姿だ。今はバルトに抱きしめられているが、あれで良いのだろうか。
「それで? サクヤは? 見当たらないけど」
「あー……そのうち、帰ってくると思います。たぶん」
「なにそれ。大丈夫なの? なんていうか、考え方がおめでたいというか」
ユリィは元々少し寄り気味の眉間のしわを一層深めて、おそらく呆れていたのだと思う。が、ナギは一拍置いてあろうことか声をあげて笑いはじめた。周囲の隊員たちも、なんだなんだと注目し始める。
「今のは皮肉を言ったつもりだったんだけど」
目の前で笑い飛ばされながらも、ユリィは別段不愉快そうではなかった。
「や、そうですよね。うん。でもそれ最高の褒め言葉だなって思って」
 わけがわからないといったふうに小首を傾げて、普段通り「そう」とだけつまらなそうに呟いた。ナギがこれでもかというほど嬉しそうに笑うから、わけはわからないが不快ではない。
 風に吹かれて朝霧が晴れていった。雲間から溢れんばかりの陽の光が注ぐ。夜明けはまるで、新しい世界のはじまりを祝福するように光に満ちていた。