last episode 8番目の扉にノックを


 サクヤはシグの質問には答えなかった。数分前までホームで大往生していたとは思えないほど機敏な足取りで用意された車の方へ向かう。隊が物資の補給や中距離移動時に使用していた搬送車両の後部荷台、それをまるまるサクヤが寝られるように設えた即席の救急車といったところだ。本人は最終的には誰の手も借りず、きびきびと歩いてきてしまったから出迎えたナギは拍子抜けしていた。
「おかえり。なんだ、思ったよりぴんぴんしてる」
こちらも負けじと拍子抜けのご挨拶。
「寝てなくて平気? 混み入った話は疲れると思うから、また後日ね」
ナギは運転席のバルトと簡単な会話を交わし、助手席に乗ろうとしてアンジェリカに止められた。困ったように一瞬口元に手をあてがって、やはり困ったようにこちらに小走りに駆けてくる。
「後ろに乗るの、アンジェの方がいいと思うんだけど……。まあそれだけ元気なら、大丈夫かな」
要は後部荷台にサクヤに付き添って乗れ、と指示されたのだろう。どうもナギはアンジェリカには頭があがらない節がある。それが微笑ましくて、つい微笑をこぼしてしまった。
「ナギ」
 借りていた本を返すみたいに、サクヤは手に持っていた紙袋をナギの前に差し出した。さすがというか、まさかという反応だった。中身の分からない紙袋に、ナギは警戒心を顕わにした。それでも恐る恐る両手でそれを受け取ると、ゆっくり視線を中へ向けた。そしてそのまま硬直してしまった。
「声が聞こえた気がしたんだ。あのとき」
「あのとき?」
 アルバトロス級を討って大空に投げ出された瞬間。あるいは、カラスに共にニブルヘイムへ行くかの選択を迫られたそのとき。サクヤの裡でははっきりと自覚した瞬間があったが、ナギの質問には答えないまま続けた。
「声……いや、もっと漠然とした……でもちゃんとナギのものだって分かる、何か」
「気持ち、じゃない?」
ナギは何の気なしに思ったままを口にした。ここは適当に笑って返される場面だと思っていたのだが、サクヤはそうはしなかった。下あごに手をあてがう。これはまずいな、と経験則で悟ることができた。一足飛びにとんでもない結論にたどり着く前にナギが先手を打つ。
「ごめん、冗談。非科学的でした」
「どうして? 科学と論理で全部説明できるなら、はじめから君にユキスズカを送ったりしないよ」
「ああ、あの……根っこ付きのやつ」
「ナギのはがくから上しかなかった」
「あ~れ~は~……あのときはその、何を言っても場違いな気がして」
「僕は、誰かにユキスズカの花を送ることはないと思ってた」
故郷アルブに咲き乱れる野の花は、サクヤの原風景であり、もっとも身近な存在であると同時に、もっとも縁遠い代物だった。かと言って特別な憧れを抱くこともなかったし、嫌悪するようなこともなかった。花は花として、ただ当たり前に咲いている。そういうものだと思っていた。イーヴェル区に咲く、黒いユキスズカを見るまでは。
 ナギは黙ったまま、紙袋の中からユキスズカの花束を取り出した。片手では持ち切れないほどの量で、そのいくつかは天使が羽を広げたように美しく咲き、多くは白く固い蕾を閉じたままだった。根元に取ってつけたような簡素なリボンが飾られている。サクヤらしいなと思った。ふっと笑った反動で、蕾のひとつが弾けるように開花した。鈴の音が鳴った。泣きたくないと思っていたのにその音を聞いた瞬間、条件反射みたいに涙が溢れた。
「これ、どっかで摘んできたでしょ。不揃い」
「うん。ヘラで」
サクヤの発するその単語に、ナギは反射的に目を見開いて顔を上げた。
「カラスと別れて中部支部を目指してる最中、少しだけヘラに立ち寄った。……一面、白かった。見せたかったよ、君に」
「白、かった……?」
「十年経ったからね。それをせめて、君に伝えたかった」
本当はそれだけじゃない。ヘラに立ち寄るよりも先に、彼はナギにユキスズカの花束を贈ることを考えていた。独りよがりでも、誤魔化しでもない、本来の意図で──これは、そういう意志の花なのだから。
 少しだけ緊張している自分に気が付いた。矛盾しているようだが、心はひどく穏やかだった。
「この先もずっと、僕は君と生きていきたいと思っている。君のことが好きだから。僕がナギに伝えたいと思っていたことは、それが全部だ」
 一切の誤解がないように、言わなくてもよさそうな言葉まで詰め込んだ。相当に野暮だという自覚はある。が、そうでもしないと彼女は「この花束には特別な意味があったかどうか」なんて的外れな質問を、切腹でもしにきたのかという緊張感と共にしにくる。しかも、後日だ。同じ轍は踏みたくはない。
「ナギ……?」
 ナギは黙っていた。真っ白なユキスズカの花弁にその小さな顔をうずめて、声も立てず泣いていた。もともと華奢なその肩が、今はより一層小さく見えた。涙の粒が、白く繊細な花弁を濡らしていく。サクヤはそれを綺麗だと思った。本心ではもう少し見ていてもいいなどと思っていた。それでも左手は自動的に彼女の頬に触れる。
「生きていこうね、この先もずっと。……一緒に」
ナギの口からはそれだけ伝えるのが精いっぱいといった風だった。たったそれだけのありきたりな愛の言葉を、決して開けてはならない扉の奥の、開けてはならない一番綺麗な箱の中に隠してきた。それが今手の中にある。
 ナギから口づけをした。伝えたい想いが多すぎた。話したい出来事が、聞いてみたい昔話が、共に語りたい未来が数えきれないほどあった。今はたったひとつが伝わればいい。だからそう、下手な言葉でなくてもいい。息が止まるような口づけだった。永遠のような刹那だった。特別な意味はない、ただ愛を告げるためだけのサインだった。
 パァァァーー! ──唐突に、不躾すぎる鳴りものが轟き、ナギは小さく飛び上がった。サクヤも驚いて発生源を振り返る。振り返った先は、搬送車両の運転席から半分身を乗り出したバルトだった。
「いい加減にしろよっ! 待ってんだよこっちは、長いこと~! そういうのは乗ってからにしろっ、俺は文句つけねぇから!」
先刻の派手な音は車のクラクションだ、鳴らした本人はゆでダコのように真っ赤になった顔で既に明後日の方向を向いている。代わりにとんでもなく嫌らしい笑みを携えたアンジェリカが顔を出した。
「そういうことらしいから、とりあえず乗ったら?」
 項をさすりながら爽やかに笑い飛ばすサクヤの横で、ナギは花束を抱きしめたまま完全に顔をうずめていた。沈静作用はないと知りながら二度三度と深呼吸しながら猛省を始める。同じ轍を踏んで踏んで踏みまくった、その集大成──この場合「醜態」成か──がこれである。いや、そう思うのがそもそも間違いなのかもしれない。もういっそ胸を張ってみるというのはどうだろう。などとナギにしては画期的な結論に辿り着いて勢いよく顔をあげた。
 一足先に荷台に落ち着いたサクヤが、ダンスにでも誘うように手を差し出して待っていた。何がそんなに嬉しいのか、それとも楽しいのか、とにかくいつもの幸せそうな笑顔でナギを待つ。だからナギもいつものようにその手をとった。
 指先が触れる。ぬくもりが伝わる。生きていこうと思える。この先もずっと、一緒に──。


 耳元でまた澄んだ鈴の音がした。美しく儚く力強い、目を閉じても響く命の音がした。

Fin.