「うるせええ! お前に何が分かるっ! やっとこれからってときだったんだよ、やっとこれで元通りんなって……報われなきゃいけない奴がなんで報われねえ! あんた生きて帰って来なきゃならなかったんだよ! 意地でも!」
「バルト……」
肩を寄せたアンジェリカを振り払うようにして、バルトは嗚咽もこらえず泣き続けた。それでようやく、アンジェリカが、切れた。
「邪魔だっつってんでしょ」
青筋ひとつを動力源に、熊の剥製みたく横たわったバルトを一気にひっぺがえすアンジェリカ。皆、タイミングを計ったように一歩引いてバルトが転げるスペースを確保してやった。
「起きられます? 隊長」
「ありがとう、みんな無事?」
アンジェリカが背中を支えながら楽な姿勢に誘導してくれる。軽い眩暈と頭痛、全身の疲労感はあるが意識の混濁はない。眼前に映る景色のひとつひとつを確かな現実として認識することができた。それができていないのはむしろ、ここに集ったサクヤ以外の隊員たちだ。
「どうなってんだ、おかしいだろ! 死んでただろう! さっき」
「そういう風にバルトが叫ぶからみんな勘違いしたんでしょうが! ほんと迷惑! 熊以下!」
「熊に失礼だよアンちゃん……」
「いや、マユリ。熊よりバルトに気つかってやろ?」
バルトの大失態に、リュカまでもが珍しく同情の意を示す。一歩間違えばこの役回りは自分だったような気がしているせいかもしれない。そしてその想像はあながち間違いではない。
「とにかく今は一秒でも早く医療設備が整ったところに。私は足を確保してきますから、ちょっとそこの……あーもう! 言われる前に動きなさいよ、パンダ見に来たわけじゃないでしょ!」
「ぶはっ。隊長、パンダだって、パンダ。まあある意味珍獣みたいなもん……」
地べたに座り込んだままの疲労困憊のサクヤを指して、リュカはあろうことか笑いを噴き出す。それがアンジェリカの逆鱗に触れたのは言うまでもなく、結局のところバルトとひとまとめにして迷惑生物のカテゴリに振り分けられた。彼女の冷ややかな視線の下、サブローとマユリという妙な組み合わせがサクヤを支えると、彼はベンチに腰かけさせられた。
「ナギと……シグは?」
「居ます。同行してくれた中部支部の上役と話をしてるところです」
「そうか、そうだね」
サクヤの胸中を察して、サブローは極力簡潔な応答を心掛けた。その甲斐あってか単に取り繕う余力がないのか、サクヤはこれまで見たこともないくらい無防備に、安堵の表情を浮かべていた。
「でもなんで……中部なんですか。あのニーベルング、最後の最後に隊長のこと放ったらかしていったってことですよね」
「ああ、それにはまぁ、いろいろあって」
カラスの提案に、間髪いれず「帰る」と答えたら喧嘩になった、ところまではよく覚えている。鶏を護送してファフニールを返したら一目散に帰る、はじめから決めていたことだ。そもそも全員無事に帰還することが作戦だと豪語したからには、自分が例外になるわけにはいかない。などということをありのまま話した後、あわよくばグラスハイムまで送ってくれないかと頼んだら、何が彼の癪に障ったのか知らないが、ものの見事に捨て置かれたのだった。
「それでムスペルから中部支部まで徒歩とか、馬鹿ですか」
あけすけにものを言うサブローも珍しいので不意に顔をあげてみたが、当の本人はぬれぎぬだとばかりに全力でかぶりを振っていた。いつのまにやらベンチの横にシグの姿がある。駅前のカフェでテイクアウトしてきたらしいコーヒーのカップをいくつか持って、手当たり次第に配っていた。シグにしてはやはり珍しい気遣いのような気がした。
「隊長が命がけで散歩してた一日で、情勢はがらっと変わりましたよ。主に悪い方に」
グングニル塔の崩壊と事実上の組織の解体、忽然と姿を消した各地のニーベルング、世間にはなにひとつ実情が伝わっていない。ロイ・グンターが行っていた世界の統制とやらは完全に瓦解し、外には混乱と不安が渦を巻いている。シグはそういったことをかいつまんで説明した。
「長老会の方はしぶとく機能してますから、遅くとも一週間ほどで弾劾が始まると思います。隊長とナギはさておき、俺と、総司令、その周辺はどういう形で責任がまわってくるか分かりません。最悪──」
「そうはならない。安心していいよ」
「何を根拠に、そう言い切れるんですか」
シグは相変わらずの不遜な態度で疑問を投げる。呆れて(もはや、呆れ果てているのレベルで)いるのは隣で聞いていたサブローの方だった。サクヤはもうこれに慣れ切っていて、呆れるどころか動じることもない。
「シグの力はこの先の世界にこそ必要なものだ。それに僕らはファフニールが齎した淀みの全てを回収しきれたわけじゃない。まだ先がある。そのための現状最も有効な“手だて”を放棄するのは馬鹿げてるからね」
「ヘラのことを言ってるなら……難しいかもしれませんよ。あそこはもう機関的にも世間的にも重要な意味を持たない、なかったことにされた土地ですから」
「でもまだ、そこにある」
「見てきたみたいに言うんですね」
「見てきたよ。空からと、……徒歩で周縁だけだけど」
上げ足をとりにいったつもりが、思いもよらないド直球で返されてシグは押し黙った。そうかと思うと、噛み殺していた笑いを顔を背けて噴き出す。
「ほんと、かなわない。もっと早く気付いてれば良かった」
本当は、気付いていた。随分早くから知っていた。どれだけ策を弄しても、この男に自分は勝つことはないだろうと。でも今はそれでいいと思っている。
サクヤは寝そべるようにして浅く腰かけていたベンチに、おもむろに姿勢を正して座りなおした。身体は軋むが、大方は単なる疲労によるものだ。そう横着な態度もとっていられない。
「シグ、君は今から新しい理由と目的のために魔ガンを握らないといけない」
「そうですね。そうじゃないと、俺を生かす意味ほとんどないですもんね」
「~~シグ」
「皮肉じゃありません。今は、そういうふうに考えられるようになったんです。俺は……生かされてきたんだと。サクヤ隊長や、ナギや、……仲間に」
それも情けないことに、自分で考えた末に出した結論ではない。ナギが言わなければ、伝えてくれなければ、たぶん一生たどりつくことのなかった境地だ。
「だから俺は、まだ必要とされるなら魔ガンを握ります。それがあなたからの命令なら是非もなく」
「頼りにしてるよ」
「はーい、そこー。暑苦しく信頼関係を確認されてるとこ申し訳ないんですけど、車用意できたんでさっさと乗り込んでもらえますかー」
アンジェリカが事もなげに出立を告げにきた。サクヤとシグは揃って顔を見合わせる。
「アンジェリカ。……ナギは?」
「先に乗せてますよ。もう隊長やだー。ナギは、ナギは、ってさっきからそればっか」
「渡したいものがあるんだ。生ものだから、早めに」
アンジェリカの渾身のからかいに、サクヤはやはり全く乗ってくれない。それどころか幾分真剣な顔つきで生ものが入っているらしい紙袋をつきだしてくる。
「それ、さっきから気になってたんですけどなんですか。肉?」
シグは半分冗談、半分本気で疑問符を浮かべる。命からがら帰って来た男が、肉を土産に現れる──男という代名詞が、サクヤという固有名詞に替わっただけで、無くは無いような気がしてくるから不思議だ。