episode ii 救いのお求めは市場で


 グングニルが本部を構えるアスガルド中央区から50キロほど南に下った片田舎、アルブ地区が八番隊隊長サクヤの生まれ故郷である。父は陸軍少将、そのせいで幼いころから遊び感覚で兵法をたたきこまれた。父が望むように陸軍士官を目指すことが当然だと思っていた。そのための能力も環境も十二分に整っていたことを本人も自覚していた。
 しかし彼は今、陸軍ではなく対ニーベルング機関グングニルで八番隊の小隊長を務めている。きっかけは母の死だった。母はサクヤの幼少時にニブルによる肺病で他界、当時も今も世の中で一番の脅威として認識されているニブルとニーベルングに対して軍も医者も全くの役立たずであった。だから自分が、などというとやけにドラマチックに聞こえるが、単に「軍は自分には合わない」という違和感に忠実に行動した結果が現在の彼の姿なのである。
 良い思い出も悪い思い出も、ここにはそれなりに詰まっている。かといって憂愁に駆られることももうない。定期的に、ある意味で機械的に彼はこうしてアルブ地区を訪れる。


「サクヤくん、いつも突然来るからお茶の準備ができないんだよねー」
 白を基調とした室内に、観葉植物としては巨大すぎるであろう緑が不規則に置かれている。ウルズ大学生態研究所のとある一室、部屋の隅で湯を沸かしているのはフェン教授。大学時代のサクヤの恩師である。項の部分で束ねた少しうねりのある長髪と、型の古いロイド眼鏡を愛用している点は昔から変わらない。
「すみません、たまたま半休がとれたのでつい。お忙しかったですか」
「忙しくても自由が効くのが僕ら研究者の良いところでしょ。忙しいと言えばサクヤくんの方こそそうじゃないの? 最近は都市部にもニーベルングが出るって言うじゃない。働きすぎて体調崩しちゃったんじゃないの?」
「あはは、そういうわけでは」
言いながら先日のリベンティーナでの作戦を思い返していた。正確には作戦後の報告を、だ。前回に限らず、グングニル隊員に課せられた使命は常に「討伐」である。それをいろいろと理由をこじつけてねじまげてきたのがサクヤであり八番隊だったのだが、上層部からは次は無いものと思うように釘をさされた。恩情ではない。サクヤ自身は事実上の最後通告であると受け止めている。今まで曖昧にされてきた罰則も今回ばかりは具体的に提示された。
(西部戦線も視野に入れる、か。分かりやすい脅しだけど、確証の無い信念でみんなを巻きこむことはできないな……)
 西部戦線とは名ばかりで、今はもう突破されてしまった第一防衛ライン周辺を指す。壊滅したヘラ地区に隣接するその拠点で守るべきものはもはやない。「次」があれば、全隊員で仲良く超最前線送りなどと仄めかされれば流石のサクヤも及び腰になるというものだ。
「良くも悪くも相変わらず、ってところですかね」
随分時間を費やして考えた応答は、ありきたりなものだった。苦笑して誤魔化すサクヤの前に湯気のあがるティーカップが差し出される。
「その状況判断は宜しくないね。変化は見えないところでも常に起きている。鈍感になってはいけないよ」
「かなわないですね、先生には」
「とは言っても今の抗ニブル剤では現状維持しかできないからね。君の今の回答は『良い』ものとして受け取っておくとしよう。……っていう世間話は置いておいて! ちょっとこれ見てくれる? これ! 実はサクヤくんが来るの待ってたんだよ~。もう早く見せたくってさ」
優しく諭してくれたかと思ったのも束の間、フェンは興奮を隠しきれない様子で二つのガラスケースを抱えてきた。よろめくフェンを見かねて、わけがわからないままサクヤも運ぶのを手伝う。ガラスケースにはそれぞれ一匹ずつ、マウスが入れられているようだ。手品の小道具のように布が被せられているため断定はできない。
「また何か分かったんですか?」
「そうっ、そうなんだよ。まぁ百聞は一見に如かずだ」
 フェンはニブルが与える人体への影響をいち早く、より詳細に解き明かし一躍生態学の権威となった人間だ。呼吸器を通してニブルを摂取することにより、肺をはじめとする各器官がニーベルングと良く似た組織に変化していく。そうして微量のニブルを長期間摂取し続けることにより肺や心臓が侵され死に至る、というのがいわゆるニブル病と呼ばれるもののメカニズムだ。たったこれだけ分かっただけでも、予防や対処の面では飛躍的に進歩した。
「前回の論文では、ニブルが人体をニーベルング化させているんじゃないかっていうところまで持っていったんだけどね。ニブル病患者のデータだけでは可能性の話で留まってしまった。そこで瞬間的に致死量を超えるニブルを投与するとどうなるかっていうのを試してみたんだ。結果、こうなった」
一つ目のケースの布が取り払われる。ケースの中で我関せずと動き回るマウスの容貌に、サクヤは目を見張った。通常の感覚なら二三歩後ずさるところを、好奇心の方が上回ったらしい身を乗り出してマウスを凝視する。フェンは実に満足そうだ。
「マウス……とは呼べないですね、もう。“コレ”、ニブル耐性は?」
 サクヤが指さしたかつてマウスだったものには、鋭い爪と体よりも大きな羽が生えていた。マウスにはその自覚がないのかガラスケースのあちこちに羽をぶつけながら以前と同じように振舞っている。 
「あるよ。臓器のほとんどはニーベルングに酷似しているし、むしろ定期的にニブルを投与しないと死んでしまうってことまで分かった。触るとカッチカチでねぇ~、魔ガンじゃないと外傷を与えることはできないんじゃないかな」
「先生のおっしゃっていたニーベルング化、がいよいよ実証されたってことですか」
「むふふ、その通り。でもこんなのは序の口でね、見せたいのは次のマウスなんだ」
フェンは嬉々としてもう一方の布を取り去る。鬼が出るか蛇が出るかと身構えていたサクヤの前に、一見してごく普通のマウスが姿を現した。
「これが……?」
「ニブルの大量投与によりニーベルング化が認められたのがマウスA、肺病で死亡したのがマウスC、そして何の変化も認められなかったのがマウスB、こいつだ。外見上はね」
「まさかニブル耐性がある?」
「そう! やっぱり勘がいいね~サクヤくんはっ。マウスAもBも二度目の大量投与では何の変化も起きなかった。しかもBに関してはニブルを投与しなくても生き延びるんだよ。凄いだろう? ということはだね? マウスBの生態が解明できればニブルやニブル病はほぼ解決したといっても過言じゃないだろう? それだけじゃない。ニーベルングの生態システムを鑑みれば自浄と再生を繰り返す……つまり不老不死なんてのも夢じゃないかもしれないっ」
「不老不死、ですか」
 子どもが壮大な夢を語るようなフェンの熱弁に、サクヤは思わず微笑した。全ての少女が一度はお姫様を夢見るように、全ての科学者も一度は不老不死を夢見るものだというのはフェンの持論だ。生態学なんてものに触れていればその熱はより高まるのかもしれない。
「ただ、全てのマウスがBルートの進化を辿るわけじゃない。逆かな、ほぼ全てのマウスがAかCに該当するんだ。今のところBルートで進化したのはこいつを含めて三個体のみ、いずれもアルブマウスだ。関わりがあるかどうかは三個体じゃ何とも言えないけど……」
「アルブマウスのみ……っていっても他の地域のマウスと大した違いはないですよね。ここの土地に、他とは違う特別な要素があるってことか……」
「そう結論付けるには尚早だって話だよ。アルブ以外でBルート進化した例もちゃんとある」
得意気に語るフェンの視界に入らないように、サクヤは苦笑いをこぼした。さっきと言っていることが違うではないかという至極まっとうな突っ込みは胸中に留めておく。
「サクヤくんは、“ヘラの生き残り”についてどう考える?」
 フェンが──客観的事実を誰より愛する学者である彼が──その言葉を口にしたこと自体がサクヤにとっては意外だった。これについては素直に顔に出す。
 ヘラ・インシデント──11年前のニーベルングの大襲撃によるヘラ地区の壊滅を人々はそう呼ぶ。当時グングニルのスーパーエリート部隊と呼ばれた二番隊が決死隊として救助活動に当たったことはグングニル隊員でなくとも知っているような有名な話だ。そういうこともあって二番隊、グングニルそのものが伝説化された節もある。