episode ii 救いのお求めは市場で


 高濃度のニブル、辺りを我が物顔でうろつく夥しい数のニーベルング、そんな地獄、死と隣り合わせの環境下で見つかるのは死体ばかり。グングニル本部は隊員の安全を優先し捜索を二週間で打ち切った。生存者ゼロ──その報告に対して、どこからも非難の声はあがらなかった。ひとつの地区がニーベルングに占拠されたという事実は、人々を恐怖と絶望の淵へ追いやった。そんな中、ただひとりの生存者として奇跡的に救出された少女がいるらしいという噂が実しやかに広まった。しかし公式には発表されていない。希望の光としてのデマなのか、事実に基づいた情報なのか今となっては知る由もない。調べようもないというのが実際である。噂は噂として広まりつづけ、十年以上が経った今も“ヘラの生き残り”という存在は希望あるいは絶望の象徴として語られている。
「先生から“ヘラの生き残り”なんて言葉が出るなんて思いませんでしたよ。あんなのは都市伝説だって一蹴するタイプでは?」
「否定にも肯定にもそれなりの材料が必要だろう? 僕はね、サクヤくん。おそらくは肯定せざるを得ない材料をいくつか持っているんだ。そのひとつがBルート進化という現象だといえる」
「ヘラの生き残りである少女は、Bルートで進化したということですか」
「その可能性は高い。……ってあれ? 少年、じゃなかったっけ?」
「そんなものですよ、都市伝説なんて。救助されて以降の情報は全くないんでしたっけ」
「そうそうそうなんだよ。残念だよねー。お目にかかりたいものだよ。だってその子はニブルに適応した体を持っている、つまり人類の次の段階に至ってるってことなんだよ?」
「救助したグングニル小隊が情報を統制するよう計らったのかもしれませんね。本当に存在すればの話ですが」
「まあねー。当時は悲劇と奇跡ばかりが先行してしまって科学的価値は二の次だったしね。今ならその子の無限の可能性に全財産投じる学者もたくさんいると思うよ」
「先生とか」
 熱弁をふるうフェンに対して今日は苦笑を洩らすばかりだ。普段はどちらかと言えばまわり(主にナギ)に苦笑される方だから、たまにはこういう役回りも悪くないと思っている。フェンの話はいつもサクヤに新しい観点をくれるし、何より興味深い。雑談のためだけに訪れてもそれはそれで収穫はあるのだが、サクヤがここを訪れるのは決まって「つまらない目的」のためだった。それを切りだすのが毎度億劫だ。
「先生、そろそろお暇しようかと」
「ああ。申し訳なかったね、つい長話をしてしまった。忙しいようだから少し多めに調合してあるけどむやみやたらに多用しないようにね」
 最近は切りださなくてもフェンが察してくれる。それが余計に虚しく感じることもある。サクヤは手渡された手のひらサイズの瓶、その中に詰まったタブレットを軽く振っていつも通り穏やかに研究所を後にした。


 サクヤがグングニル本部に戻って間もなく、八番隊は揃って中央区の第三主都であるヴィーンガルブ市、そのはずれにあるフォールバングの森の調査任務に就いた。森の中の洋館から夕方になるとニーベルングの鳴き声が響くというのである。
「あのさ~、これって明らかに一番隊の仕事だと思うのは俺だけ?」
 リュカが意を決したように口を切った。森の中に入って皆かれこれ三十分は無言で歩き続けている。何故誰も愚痴をもらさないのか甚だ疑問でしょうがないといった様子だ。
「暗黙の了解とはいえね、それぞれの隊で住み分けしてきたわけっしょー? 調査だの偵察だの地味なやつは一番隊だったじゃ~ん。もう何この不気味ハイキング。暇っ。俺歩きながら寝れる」
 空をすっぽり覆うように育ち切った針葉樹のおかげで昼間だというのにめっぽう暗い。虫の声もなく、当然鳥の声もするはずがなく、生き物の気配が自分たちだけというのも不気味さに拍車をかけていた。麗らかな昼下がり都会のオアシスで森林浴、という雰囲気ではないことだけは確かだ。リュカの言い草であれば、それはそれで不満をもらしそうではあるが。
「正確には調査・討伐。一番隊は百パーセント安全が確保されたところにしか出向かないから、まぁ今回もうちの案件ってかんじ」
「なーんだ、ナギも皮肉もりもりじゃん。そういうのはさーもっとオープンにしていこうぜー。なんでこんな葬列みたいにダークに競歩せにゃならんのよ」
「たった今ハイキングは嫌だって言ったのはどちら様でしたっけ! もしニーベルングが身を隠すのが目的でここを利用してるとしたら、私たちの声で逃げちゃうかもしれないでしょ! ……って出てくる前に確認したじゃないっ」
「あー。したした、した気がする。あれだったよな。名付けて『ニーベルングウォッチング作戦』。こんなに不気味極まりないとは思ってなかったけどな」
高らかに笑い声をあげるリュカと、うっかりペースに乗せられて声を荒らげるナギ。二人セットでバルトから小突かれた。傍から見れば小突かれた、という程度のものだったが二人揃って地面にうずくまる。バルトの拳にはメリケンサックか何かが仕込まれているのかもしれない。
 結局大声で罵りあうリュカとバルトを捨て置いて、ナギは先頭を黙々と歩いていたサクヤの横についた。
「……大丈夫? なんか、元気ないけど」
 思いもよらぬ切り出しに、サクヤが立ち止まる。
「元気? いや、あるつもりだよ。疲れて見えるかい?」
「そういうわけじゃないんだけど。なんとなく……うん、まぁ元気ならそれで」
サクヤは微笑して、立ち止まったまま視線を斜め上方に移動させる。ナギも釣られてそちらを見た。鬱蒼と生い茂った木々の合間から、目的地である洋館が見え隠れしていた。その屋敷を目にしての感想は、全員見事に一致した。
「お化け屋敷!」
追いついて来たマユリが開口一番、興奮した様子で皆の意見を代弁する。今度はバルトも責め立てない。
「否定できんな、こりゃ」
「うぉー! 不気味クライマックス! これ何、住んでんの人。あ、ニーベルングさんか」
リュカの軽率発言にすら否定できる要素がない。外壁の半分は蔦や枯れ草に覆われている上、壁そのものもところどころひび割れを起こしている。四階建ての窓という窓に色あせたカーテンが重く垂れさがっているのが見えた。やけに面積の広い屋根が乗っかっており、元の色が何だったのかも分からないほどに苔むしていた。森同様、およそ生き物の息吹というものが感じられない外見だ。
「夜な夜な洋館の中をさまようニーベルング、か」
サクヤの脳内でもお化け屋敷設定が公式になろうとしている。
「ニーベルングっていうか……別のものが出そう。サイズ的にもその方がしっくりくるし」
「それもそうだね。でもそうなると本当に分野外だなぁ。……祓魔って僕らが依頼しないといけないのかな。ニーベルングの霊とかだと、どっち担当になるんだろう」
 厳かに構えるお化け屋敷、もといニーベルング生息の疑いがある古びた洋館を前にサクヤとナギはいつも通りのテンションを保っていた。対処の面倒さから言えばやや下降気味かもしれない。バルトやアンジェリカ、シグもこの類で、洋館の書類上の所有者である何某の話だのデザインの話だのについてとりとめもなく雑談を交わしていた。リュカとマユリに至ってはお化け屋敷の謎解明に向けてやる気満々である。
 一名。約、一名。ほぼ一名様。どのテンションにも属さない男が大量の冷や汗を流しながら血の気の引いた顔で屋敷を見上げていた。
「サブローさん、大丈夫」
 下痢でも我慢しているのかと思って、シグはできるだけ密やかに声をかけたつもりだった。下痢でないことはすぐに判明する。
「だだだだだだだダイジョウブだとも! お化けって、まさか、そんな、ひひひひ科学的な! いないよ、いるわけないよ、中にいるのはニーベルング! ね! 間違いない!」
眼鏡が曇っているのは高速で蒸発した涙のせいではないだろうか。サブローの必死すぎる自己暗示を否定して良い権利はおそらく誰にもない。シグは全てを悟った。ここは心ある自分がサブローのフォローをしなくては。
「大丈夫ですよ。普通、ニーベルングの方が恐いわけだし。思っているより弱っちいかも」
「何の話だよ! ニーベルングがか!? 今回は小さそうだもんな!?」
「サブさーん、何言っちゃってんのー? あんなフロアの屋根低そうな建物に収まっちゃうニーベルングなんていないっしょー? 現実を見てって……ああっ! あの窓から誰か見てるぅっ!」
「うわあああああ! 無理無理無理無理無理無理! すいませんごめんなさいもう二度としません! 窓とかあぁぁ……窓ぉ……窓? ……全部カーテンついてるじゃないか。リュカアアア、やぁぁぁめぇぇろぉぉぉよぉぉぉぉぉ!」