アルバ暦837年、詩の月1日──カレンダーの日付を目にしてナギは小さく溜息をついた。八番隊がイーヴェルから帰還して三日経つ。経ってしまったというべきなのかもしれない、日にちを気にしている余裕も無いほどにこの三日は慌ただしく過ぎた。
サクヤは作戦終了と同時に電池が切れたように倒れ、大げさに言えば昏睡状態というやつで本部まで運ばれた。医務室長に言わせれば「三日間睡眠無しの労働に相当する肉体疲労と精神疲労」らしく、とにかく寝かせておけば良いということなのでそれに従っている。大量にこさえた裂傷だの火傷だのの治療も同時進行するために、広い医務室の一番奥を陣取ってサクヤは今も死んだように眠っている。そう思いこんで開けた間仕切り代わりのカーテンの奥で、サクヤはベッドに横になったまま横着に読書に励んでいた。見ての通り三日三晩完全に寝たきりという風でもない。
ナギの二度目の嘆息もなんのその、サクヤは痛めた脇腹を庇いながら笑顔で上半身を起こした。
「おかえり。どうだった?」
「どうって……想像通り? あくび堪えるのに必死だった。はい、これはあなたの分ね。」
ナギはベッドボードに置いていた手のひらサイズの木箱から黄金色に光る勲章を取り出した。
「特別功労賞、グングニル小隊八番隊隊長サクヤ・スタンフォード殿」
半眼棒読みで手渡された勲章を苦笑交じりに受け取るサクヤ。
「口止め料にしては高すぎる気もするけどね。みんなには面倒な仕事を押し付けてしまったみたいだ」
本部に帰還した後、ナギはイーヴェル地区で起こった全ての出来事について包み隠さず上層部に報告した。これはサクヤの指示だ。あのイーヴェル区から八番隊全員が生還したことも、「生存者」が存在していたことも上層部にしてみれば大きすぎる誤算だったに違いない。そしてそれはサクヤたち八番隊にとっては絶好の交渉カードになりえた。
それを見越して上層部がとった対応が、この「特別功労賞」なる異例の表彰というわけである。全くの「想定外」であったイーヴェル地区大襲撃に見事に対処し、最小限の被害で多大なる功績を残したというのが表彰の表向きの理由だ。口八丁のサクヤが出張ってくるのを避けたかったのか、表彰式は彼の回復を待たずして慌ただしく執り行われた。
ベッドの脇にある椅子に腰かけたまま、ナギは何となく沈黙を守っていた。そして何となくサクヤとは視線を合わせずに、何となく窓の外を見ていた。よく晴れた夜空に半円の月が我が物顔でのさばっている。いつもはただ単純に綺麗だと思うのだが、今夜は少しだけ自己主張が強い月を残念に思ってしまう。詩の月1日は“誓願祭”──その土地土地を守る天の使いが、歌に乗せて神に報告をする日と言われ、できるだけ多くの良い報告をしてもらおうと各地で天使をもてなす宴を開く。宴には報告のついでにちょっとした願いや祈りを届けてもらおうという意図もあって、聖歌に乗せて星に願い事をするというのが“誓(星)願祭”の醍醐味でもある。
グングニル機関もこの日ばかりは市街と同じくお祭り気分に浸る。隊員宿舎塔の空中庭園を開放し、家族や恋人、友人たちと過ごせる時間を設けている。八番隊は専ら隊の親睦会といったふうで、毎年行われる花火やバーベキューには決まって全員で参加する。そういうこともあって今日という日が訳の分からない表彰式でつぶされるのは、ナギにとって望ましいことではなかった。ただし今年はそれがあろうがなかろうが大差なかったのかもしれない。
少しだけ視線を戻すと、サクヤも同じように窓の外を眺めていた。読みさしの分厚い本を再び手に取る。流石に庭園でどんちゃん騒ぎ、という体調ではないか。
「もうじき花火が始まる時間だ。今年は場所取りしてる余裕が無かったけど……ナギが行かないと連中がつまらないんじゃない?」
ナギは生返事。行く気はある。誓願祭は大好きな行事のひとつで、花火もバーベキューも滅多に楽しめるものではない。昼間楽しめなかった分、夜はしっかり取り戻したいとも思っている。ただそのためにはいくつか片づけておくべき問題が残っていた。
「ひとつ、聞いておきたいことがあって」
「何だい?」
いくらかの勇気を絞り出して切り出したナギに対して、サクヤは完全に平常運転だ。それがナギの緊張に拍車をかける。
「……その」
「うん?」
言葉は予め選んできたはずだったが、土壇場になってそのいくつかがどこかへ旅立っていってしまった。口ごもったら最後、たぶんもう二度と話題にあげない自信がある。しかしそれだけは駄目だという危機感もちゃんとある。だから何とか顔をあげた。
「イーヴェルでの、あのときのキ……キスに……特別な意味があったかどうか」
口にした瞬間に窓から飛び降りたくなった。間違いなく日常会話で使用する単語じゃない。少なくとも自分にとってはそうだと確信できた。しかしこれ以外にどう言っていいか分からないのだから仕方が無いではないか。
窓からと言わず断崖絶壁から飛び降りるような気分で、ナギはサクヤを見た。彼は、鳩が豆鉄砲でも食ったような顔で固まった後、その場で思いきり悩み始めた。一旦ナギから視線を外し口元に手を当てる徹底ぶりだ。珍しく眉間にしわを寄せている。サクヤはサクヤで、言葉を選ぼうという意思が垣間見えた。
「……ない、けど」
選んだ結果こうなった、らしい。一番シンプルな回答。サクヤにしては珍しく言葉を濁した。ナギの顔色を伺うように視線をよこすのも、やはり彼らしくなかった。
ナギは深々と嘆息して席を立つ。
「あーはいはいっ。分かってる、っていうか分かってた。確認だけっ」
「ちょ、ちょっと待って。それは単に君を好きだってこと以外に何か特別な意味合いが付加されていたかどうかって質問だよね? それって例えばどういうシチュエーションなんだろう、……画期的というか斬新というかそういう類の暗号として、とかしか思いつかないけど……それだと日ごろから訓練を積まないといざっていうときに理解不能だし、訓練するにしてもちょっと不謹慎のような気がするし……」
腰を浮かせたままの状態で今度はナギが固まった。サクヤが怒涛の勢いで展開してくれた持論、どこをどこからどんなふうにつっこめばいいのかもう分からない。暗号? 訓練を積む? この男の脳内は一体全体どういう構造になっているのか、しかも最初から最後まで大真面目だから始末が悪い。考えだしたら頭が痛くなってきた。
「そんなふざけた暗号があってたまるもんですか……! どうしてあなたってそう……」
「〝おめでたいのか"?」
サクヤが先取りした台詞は、あのとき教会でナギが口にした言葉だ。あのときも、今も、当然彼はふざけてなどいない。そんなことはナギも百も承知だ。それでもサクヤがどこまでも楽観的で何も考えていないかのように見えるのは、どういう状況下にあっても深刻にならないことを彼が徹底しているからだ。ただ深刻になって思考と行動が立ち行かなくなることをサクヤは何より嫌う。
窓の外で一発目の花火が咲いた。薄暗かった医務室の中が、瞬間華やかに照らされる。
「特別な意味はない。ただ君を守りたいと思った。僕が生きている限りはずっと」
ナギは理解した。思い出したと言った方が正しいかもしれない。最初から最後まで、サクヤは至って真剣に話を進めていたわけだから答えは出ていたのである。理解した途端に指の先から耳まで赤くなったのが自分で分かった。
「質問の意図は、それで合ってる?」
まだ不安そうなサクヤに何とか応えようとして、ナギは何度も何度も頷いた。何か言わなければと思うのだが、言葉が尻ごみして出てこない。そんなナギの代わりに、花火は次々とあがり夜空に弾けて溶けていく。
「……ありがとう」
考えた末に素直な気持ちを述べると、そういう言葉がこぼれて出てきた。
「どういたしまして」
サクヤがようやく安心したような、満足そうな顔で笑った。その穏やかな笑顔にナギもつられてしまう。
明るすぎた月を覆い隠すように、色とりどりの花火が咲いて、散って、また咲いた。その繰り返しを二人は黙って小さな窓から見続けた。