episode iv 弓張月の夜


 ナギは今一度全神経を研ぎ澄まし、目の前で揺れる純白の花を見つめた。雪のように白い花弁、縁は天使の羽のようにふわふわした繊維質。そして記憶の片隅を通り過ぎる、鈴の音のような開花の合図──どれをとっても“ノウヤクイラズ”はあんまりだ。自身の田舎娘ぶりを最大限アピールしたような気がして、ナギはそのまま赤面して項垂れた。
「いや……なんかおばあちゃんの知恵袋的なことだと思うんだけど、この花にね? 殺菌力とか滅菌力とかそういうのがあってね? 植えとけば土を綺麗にしてくれるぞーみたいな。家の裏にもよく咲いてたし、そうだ。母さんが煎じてお茶とかにして……」
もごもごと言い訳じみた、あやふやな知識を披露している内にやや鮮明さを欠いた母の笑顔が脳裏をよぎる。不思議な気分だった。こんな風に子ども時代を懐かしむということ自体がナギにとっては新鮮だった。頭の中で、記憶の中で、閉じ込めておいた暗く狭い思い出の匣の中で、鈴の音が鳴る。いくつかの優しい記憶がその度に弾けて溶けた。
 ナギが一人勝手に邂逅している間、サクヤは黙って口元に手を当て何かを考えていた。
「咲いてたって……ニダの牧場に?」
「え……? うん。……そう、だけど」
ナギの歯切れの悪い回答を得た後、再び沈黙に徹する。サクヤは自分の持てる全ての情報と、この場所にある「何か」を、頭の中でひとつひとつ丁寧に照合している。その中に自分の発言や仕草や表情までもが含まれていることを察するのは、そう難しいことではなかった。
 頭の中で鈴の音が鳴る。優しい記憶を呼び覚ますためではなく、警告音として静かに厳かに。
「……今から僕がする質問にイエスかノーかで答えてほしいんだけど」
 鈴の音が鳴る。それは耳鳴りのようにけたたましく響き、ナギを非難する。──間違えた。それだけは分かる。ナギ・レイウッドであるために守らなければならなかったルールを、知らぬ間に犯してしまったのだろう。サクヤの有無を言わさぬ口ぶりが、胸中をかき乱す。
「ナギ、君は──」
「たーいちょおー! ナギこっち来てなーい? 整備記録が俺のだけ届いてないんだけ……ど」
 所属隊の執務室だからといってノックも無しに乱入してくるのはリュカくらいのものだ。そこそこ重いはずの両開き扉が、何の意味もなさず軽快に壁にたたきつけられた。
(……超取り込み中じゃん)
状況だけは一瞬で察知した。間の悪い自分に同情するも、ここまで派手に登場しておいて引きさがるのも変だ。瞬時に空気だけは読んだが、ふさわしい対応というやつはひとつも思い浮かばず、リュカはひたすらその場で凝固していた。そうこうしている内に、ナギが立ちあがる。
「全員分まとめて私が持ってる。ヴェルゼの分を出せばいい?」
「ん? えーっと、うん、そんなかんじ」
「朝礼の後渡すから、先に行ってていいよ。ついでに皆のも返さなきゃ」
 ナギは言いながら、自分の分のティーカップと書類の束を持って執務室を出た。サクヤは引きとめなかった。寸断された言葉の続きを継ぎもしない。ナギの態度がほぼ答えだ。炙りだしで書いた子ども騙しの暗号のように、じわりじわりと滲み出た真実をなぞった。そして今さら、間違えたなと思った。
 嘆息でユキスズカの花が揺れる。今やただの色のついた水と化した紅茶に口をつけ、サクヤはブリーフィングルームに向かった。