episode iv 弓張月の夜


ナギは暇が嫌いだ。じっとしているのが、と言った方が的確だろうか──その割に事務仕事の速さと丁寧さはピカイチだから有難い──不満顔のナギを見て、サクヤは苦笑いをこぼした。
「みんなにも君にも、休暇は必要だよ。街に出て買い物したり芝居を見たり、グングニル以外の人と会って話すことも大事だしね」
「それはまあ、そうだと思うけど……」
休暇丸一日を塔内射撃場でグングニル同隊の人間と過ごしてしまったナギとしては耳の痛い話だ。ここまでピンポイントで当てつけがましいと、どこかで監視されていたのではないかと疑いたくなってくる。
「そういうわけで今日はのんびり目に事務作業を進めよう。備品の発注と演習プログラムのたたき台ができれば充分かな」
「先方からイーヴェル襲撃を模した状況をプログラムに加えてくれってきてるけど、そっちはどうしようか?」
応接ソファへ移動しようとしたところでナギがそんなことを言うものだから、腰を浮かせた状態のままで一瞬静止してしまった。考えるまでもなく答えは決まっている。ナギもそれを把握しているから書類を持ったままで肩を竦めていた。
「適当に流そう。必要なら僕が出るよ」
「了解。大丈夫、こっちで何とかなるわ」
 ナギはある程度の交渉事なら卒なくこなす。発言力があり、そこそこの権力を行使できるのは無論サクヤの方なのだが、そういうものが出張らない方が上手くいく局面も少なくは無い。彼女はそれを良く心得ているし、その逆にサクヤの力を必要とする局面も誤らない。
 優秀な補佐官だ──随分前から知っている周知の事実を、サクヤは何故か胸中でつぶやいていた。だから第二支部長に頭を下げてまで八番隊へ引き抜いたのだ。そう確認しながら、それだけではなかっただろうなと当時の自分を振り返る。広いグングニル機関内、優秀なだけの補佐官はいくらでもいる。それだけではない何かがナギにはあった。
「ちょうどお湯も沸いたし、お茶にしよっか?」
 ナギはいつもの台詞をいつものように笑顔で言う。お湯が沸くまでに朝の打ち合わせを終わらせるというのが、いつの間にか定着した二人の間のルールだ。全隊での朝礼までに生じた僅かな隙間時間を、ナギが淹れた紅茶を飲みながら他愛の無い話で埋める。打ち合わせの続きをすることも間々あったが、大抵はナギが話す特に意味の無い噂話や近況報告で終わる。サクヤはこの時間が好きだ。ナギが笑って話をするのが好きだ。
「そういえば調べ物って言ってたけど、昨日どこまで行ってたの? 体調万全じゃないんだからあんまり遠出してほしくないんだけど」
淹れたての紅茶の香りと湯気が柔らかく上る。ティーカップをサクヤの前に差し出しながら、ナギは内心詮索し過ぎかなと思っていた。心配も必要以上にはしないよう心掛けているつもりだが、殊サクヤに関してはつい口をついて出てしまう。彼の体調はただでさえ気にかかるのに、今は重傷(治りかけ)だ。
「アルブまで帰っただけだからそこまで遠出ってことはないよ」
サクヤは特に気にした様子もなく紅茶を味わいながら穏やかな空気を保っていた。
「アルブって、実家の方?」
「いや、大学にね。師事した先生がニーベルングやニブルについて研究してて、少し話をするだけのつもりだったんだけど盛り上がってしまって」
「なんか、サクヤらしいね」
 何の話をしたのだとか、割と頻繁にアルブに帰ってるよねだとか話を掘り下げるのはやめておいた。聞けば答えてくれるのだろうが、彼は毎度の帰郷をそこまで楽しみにしている風ではないからだ。積極的に話そうとは思わないことなら、この場では聞かないでおくのがいい。
「ナギは、実家には帰ってるの? そこまで大がかりな休暇があるわけでもないけど」
「私? 節目節目には一応帰ってるけど……あ、今の時期は帰らないよ? 帰っても忙し過ぎて休めないどころか、手伝わされてよれよれで戻ってくることになっちゃう」
「ああ、そうか。毛刈りの時期?」
「そう。去年また二十頭買い付けたとか言ってたから、絶対人手が足りなくて今頃戦争みたいになってると思う」
ナギは想像するだけでぞっとできるのに、サクヤは他人事とはいえ声をあげて笑っている。
 ナギの実家は中部二ダ区で牧場を営んでいる。ニダは丘陵と森林に囲まれた自然豊かな土地で元々畜産業が盛んな地区だ。レイウッドファームは中でも一、二を争う屈指の大牧場で、羊120頭、乳牛50頭、豚50頭、馬10頭がのびのびと(若干野性的に)飼育されている。父であるディラン・レイウッドはグングニル中部第二支部で支部長なんて大層なものを任されているが、実家に残る兄と兄嫁は羊毛刈り最盛期の今、文字通りのてんてこ舞いを踊っているはずだ。
 ナギは兄と共に幼いころから手伝いをしてきたので、牧場の仕事は一通りこなせる。こなせるというより、羊毛刈りに関しては地区の大会で優勝、ソーセージづくりに関しては牧場一の速さを誇るという圧倒的実績を持つ。ニーベルングが世界から消えてグングニル機関がお払い箱になったとしても、ナギが働き口に困るということはないわけだ。
 そういういきさつを少なからず知っているサクヤだからこそ、ナギが毛刈りの話題で身ぶるいするのは面白い。
「他人事だと思って……ほんとに凄いんだから。立ちこめる獣の臭気、羊たちの悲痛な叫び、そして貧相な皮だけになった彼らとうず高く積み上がった薄汚い毛、毛、毛……」
サクヤの笑いは止まらない。ナギが神妙になればなるほど面白おかしいらしい。子どもか。
「いいね、見てみたい。ニダはニブル汚染もほとんどないし、動植物も多種多様だ。いいところなんだろうな」
「サクヤは好きかもしれないね。なんかよく名前の分かんない謎の虫とかもいっぱいいるし」
 サブローなんかは都会育ちだから駄目そうだ。アンジェリカはマユリはどうだろう、案外喜ぶのかもしれない。シグは──どうかな、分からない。家畜と戯れるシグは想像するのが難しい。
「今度帰ったら、お土産にソーセージでも作ってくる」
「それは楽しみだ。……あ、そうだ。お土産と言えば僕も君に」
サクヤは立ちあがって、執務机の下からごそごそと何かを取り出してきた。煉瓦色の小振りの鉢に純白の花、自らの花弁の重みにあらがうように首をもたげて咲いている。その花弁のひとつひとつは絹のように繊細で羽のように柔らかい。
「アルブでは珍しくない花なんだけど、こっちの方ではあまり知られていないみたいだね。これはもう咲いてしまっているけど蕾が開くときに鈴の音みたいな綺麗な音が鳴る。……ところで、どっかで見た花だと思わない?」
「待って。それを今一生懸命思い出そうとしてる」
サクヤに言われるまでもなくナギはその花を知っているという確信があった。開花を告げる鈴のような音とやらも、とかく聴いたことがある気がする。しかしながら鉢植えの一輪とはいえ、曲がりなりにも男から花をプレゼントされておいて全力の顰め面で対象を睨みつけるのはいかがなものか。
「イーヴェルには黒いのが咲いていた。これが本来の、っていうのも違うのかもしれないけど白い方の“ユキスズカ草”。アルブには黒いユキスズカの分析に行ったんだ。実はちょっと面白い結果になって──」
「思い出したっ!」
 既に種明かしに入っていたサクヤを遮って、ナギはティーテーブルに半身を乗りあげた。流石のサクヤも面喰らって押し黙る、そして仰け反る。ナギはうろこが落ちたとばかりに瞳を輝かせた。
「“ノウヤクイラズ”だ、これ! ……え? “ユキスズカ”ってこれなの? ノウヤクイラズだよね? ……え?! そんなかわいい名前?」
「ナギが知ってるのはその名前なの?」
 何と言うか、愛らしい容貌にそぐわない色気の無い名前ではないか。おそらく「農薬要らず」からきているのだろうが、それにしても身も蓋もない。