episode v 魔女は琥珀の涙を流す


 グングニル本部塔内にある広大な図書室。吹き抜けになっている1階から3階の壁という壁に余すところなく書棚が敷き詰められ、そのひとつひとつの棚には、やはり余すところなく本が整列している。蔵書数だけ見ればピカイチのグングニルの図書室は、隊員たちの娯楽施設というかサロンの用途も兼ねているから、蔵書の内容に関しては「だだっ広くどこまでも浅く」である。
 そんな見掛け倒しの図書室でも利用者は一定数いる。六人掛けテーブルを一人で陣取って文字通り頭を抱えている開発部の隊員がそうであり、魔ガンの専門書をジェンガのように積み上げ斜め読みしている整備部の隊員がそうであり、嘆息しながら回廊をうろうろしているどこかの隊の補佐官がそうだ。
 ナギはそんな隊員たちに混ざって、分厚い背表紙が並ぶ書棚の前に突っ立っていた。開いているのは一番新しい植物図鑑。踏み台をテーブル代わりにして、他にも二冊ストックしてある。彼女が見つめる頁には、白い可憐な──しかし絶対的存在感のある──花が載っていた。

 ユキスズカ草。
 スズカ科。花は真っ白で、鳥の羽のような独特な質感。また、開花の際に揺れる胚珠から鈴のような美しい音が鳴ることからこの名がつけられた。
 
 ナギの記憶にある「ノウヤクイラズ」という花は、やはり図鑑には「ユキスズカ」という名で収められていた。もしかしたら、非常に良く似た別の花が存在するのではないかと淡い期待も抱いていたが見事に粉砕する。
 分布地域の項をなぞった。そして、静かに溜息をついて静かに背表紙を閉じた。


 午後二時を過ぎた塔内の食堂で、アンジェリカは遅めの昼食を摂っていた。他人から見れば遅めなのかもしれないが、彼女にとってはいつもの時間だ。混雑を避けてゆっくり食事を摂ろうと思えば必然こうなる。いつもなら向かいの席にナギがいて、山盛りのサラダと1.5人前程のパスタに囲まれている時間なのだが、今日は珍しく一人だ。
「あれ、アンジェリカ一人かい?」
 黙々とパンを食べながら顔をあげるとサクヤが立っていた。彼の食事時間は日によってまちまちだがアンジェリカと共に食事を、という風ではない。八番隊隊員なら、この時間この場所にくれば大抵はナギとアンジェリカに遭遇できることを知っている。隊長殿は今日に限って不在のもう片方をご所望だったのだろう。
「ナギなら午後までに調べておきたいことがあるとかで。珍しいですね、サクヤ隊長がナギを見失うなんて」
「タイミングが悪かったみたいだね。特に片付けなきゃならないレポートは無かったと思ってたけど……」
 からかうつもりでナギの名前を先に出したつもりだったが、サクヤは一切動じない。というより通じていない。この手のカマをかけて期待通りの反応をくれるのは、ナギの専売特許のようなものなのでアンジェリカも特に残念がったりはしなかった。困り顔で突っ立ったままのサクヤに座るよう促す。
「急ぎでした?」
「いや、応援要請の手続きをとってほしかったんだけど……まぁ仕方ないか」
本音を言うと、手続きと根回しだ。手続き自体はサクヤがやっても何ら問題はないのだが、彼が挨拶に出向くと要請される側の隊、特に今回応援を請う六番隊なんかは心の底から嫌悪感を顕わにしてくれる。彼らのような常識が服を着て歩いているようなタイプにとって、破天荒の代名詞のような八番隊は鬼門なのだ。ナギならそういう連中との交渉もうまくやってくれるのだが。
「ナギの仕事でしょう。私から伝えますよ」
「……そうしてくれると助かるよ」
 食後のコーヒーに口をつけながらの何でもない提案だ。その何でもない提案に、サクヤは一瞬躊躇ってから乗った。
 アンジェリカには、そのサクヤの反応が特に意外なものではなかった。ここ最近のナギとサクヤ、二人の間に流れる空気が妙に緊張していることには気づいている。とりわけナギの方が顕著だ。サクヤと視線を合わせようとしない、二人きりになるのを全力で回避しようとする、ぼんやりしているかと思えばサクヤの一挙一動に過剰反応したりもする。これだけ派手にやって当人が気づかないはずがないから、サクヤも避けられている事実を分かっているはずだ。アンジェリカとしては、それを良い意味に捉えるか悪い意味に捉えるかという解釈に迷っているところである。
「隊長何か、やらかしました?」
そういうわけで、直接本人にアタック。
「うーん……どう、かな」
曖昧に濁された、ようだがこの回答で十分だ。とりあえずあっけらかんと否定できない何かは起きてしまったのだろう。ナギにしろサクヤにしろ、仕事と私事を綺麗に分ける性格ではないから二人が四六時中ぎくしゃくすれば当然、作戦にも支障が出る。というか既に出ている。輪をかけて鈍感な隊員たちが全く気づかないだけで。
「まあ詮索はしないでおきますけど。ちなみに早期に解決します?」
「うーーーーーーん……。どうかなあ……」
(この朴念仁……)
アンジェリカが胸中でなじる。そうとも知らず、サクヤは眉をハの字に下げて大きく唸っていた。それも数秒の間で、深呼吸のような嘆息をひとつして切り替えるとおもむろに懐に手をいれた。出した手の中に四つ折にした小さな紙切れが握られている。
「ナギの方はひとまず置いといて、こっちは、君に依頼したいことなんだけど。その筋の人たちに少し探りをいれてくれないか」
 周囲に人はいなかったが、アンジェリカはそれでも顔色を変えないように努めた。サクヤの手の中のメモを受け取って、やはり自分の手の中で手早く広げて目を通す。
「あら……この手のオカルトに興味がおありでしたっけ?」
「最近ね。ただの可能性も情報に格上げしておけば、いざというとき武器になると思って」
「それは承知しているつもりですけど、発想が穏やかじゃないですね。いざというとき、ですか」
「深い意味はないよ。単なる興味本位と保険、かな」
そう言っていつものように穏やかに笑うサクヤ、その笑顔にアンジェリカは逆に不安を抱くことがある。今がそうだった。
 サクヤ・スタンフォードは、グングニル機関で何を成そうとしているのだろう。その断片におそらく自分は触れている自覚がある。では他の隊員は? ナギはどうなのだろう──席を立つサクヤに合わせて、アンジェリカは思考を遮断した。


 翌日の昼、サクヤ率いるグングニル八番隊は、六番隊と共に中央区の最西端にある町、ビフレストに入った。一昨日の夜までに二件、この街でニーベルングによる殺人事件が起きている。更に昨夜三件目が発生、つまり一夜に一人ずつ犠牲者が出ているということだ。
「ジャージャーン! ニーベルングサスペンス劇場! ……ってこと? これ」
 大所帯で隊列を組んで(深刻そうな顔で)歩くのに飽きたらしい、リュカが前触れもなく謎の効果音を発した。周りにいた六番隊の何人かが怪訝そうに振り向く。
「っていうか、殺人鬼じゃなく? 切り裂きなんとかでもなく? 俺たちほんとにこんな大名行列組んで仰々しくやってきちゃって大丈夫?」
「一番隊の先行調査では、ほぼ確実ってことだったでしょ。全ての現場から多量のニブル反応が検出されてるし、遺体は噛みちぎられて損傷してるし、みたいなことが長々書いてあったじゃない」
 ナギが今朝方目を通した報告資料の内容を噛み砕いて抜粋。要点はこれで事足りると思っている。素人目でも判断できそうな内容をじっくりねっとり時間をかけて調査した上で、一言でまとまる状況を一頁に渡って解説してくれるのが一番隊の報告スタイルだ。ナギはいつも、遠回しに皮肉を漏らす。リュカも納得するどころか鼻で笑い飛ばす始末だ。