episode v 魔女は琥珀の涙を流す



「……嘘ばっかり」
 サクヤの優し過ぎる嘘が、なんだか嬉しくて哀しかった。笑わないとなと思って口元を緩めるときちんと笑顔をこぼすことができた。サクヤは怒っているわけではない。憐れんでいるわけでもない。ただ穏やかな微笑を携えて、ナギの言葉を待っている。
 ユキスズカ草は、事実アルブにしか咲かない。ヘラという土地にも咲くと図鑑には書いてあった。その土地の名には注釈が付されていた。「826年のニーベルング大襲撃により壊滅し、現在は存在しない地区名」だそうだ。そういうアスタリスクが必要な地「ヘラ」が彼女の生まれた場所だった。家の周りには年中ユキスズカが咲いていた。群生地もところどころにあって、その景色は絵画のように美しく、開花の鈴の音は常にどこかで鳴っていた。
 忘れえぬ光景。忘れてはならない記憶。と同時に心の深い深い奥底に閉じ込めてきたもの。優しく気丈で美しい母、穏やかで聡明で正義感の強い父、たくさんの友達、初恋の男の子、大好きだった全ての思い出──実を言うと、もう鮮明には思い出せない。記憶を辿ると、強烈な吐き気と恐怖に襲われる。今もかろうじて思いだせるのは、冷たく暗いカタコンベでうずくまっていた自分に手を差し伸べてくれたグングニル隊員の柔らかな笑顔だけだ。
 彼女はそうしてただ一人、ヘラ・インシデントから生き残った。そしてナギ・レイウッドという人生を新しく積み上げることにした。世界は「ヘラの生き残り」という奇蹟を血眼になって探していたけれど、自分には無関係だと思った。全ての人間が死に絶えるような毒の霧ニブルの中で、全ての人間を食らい尽くそうと闊歩していた何百というニーベルングの中で何故生き残ることができたのか──人々はそれを奇蹟だと言った。希望だと言った。人類の導き手だと言った。しかしそれらはナギ・レイウッドには関係がないことだ。ナギは、ニダ区の牧場で生まれ育ち、父でありグングニル支部長であるディランに憧れてグングニル隊員になる。そういうありがちな人生を歩んできた少女なのだから。
 ああ、それでも「ナギ」という人間のこれまでの歩みは自分には勿体ないくらいに輝いていたと思う。温かい家族に恵まれた。信頼できる仲間と巡り合えた。そして──。
「私、もう八番隊にはいられないね……」
 ぽつりとこぼす。琥珀色のシナモンティーに儚げな波紋が広がった。ゆらりと自分の顔が揺れる。サクヤの反応が無いのが気にかかって、ひとまず顔を上げた。彼はというと、
「え!? どうして!? 転属したいの!?」
ワンテンポ遅れてのこの反応である。サクヤは大きく眼を見開いて、嘗てないほどの危機感に襲われていた。わけがわからないのはナギの方である。この人、今まで寝てたんじゃないだろうななどと仕様のない疑いを抱かざるを得ない。
「は? だ、だって……“ヘラの生き残り”なら、最前線とか、研究所とか、そういうところに行って責務を果たすのが筋ってもんでしょう?」
「うーん、規定はないんじゃないかなあ。それに“ヘラの生き残り”の少女は、その後の消息は一切不明らしいし、ある意味都市伝説みたいな存在だよね? ツチノコとか河童とか口裂け女とかと同じレベルの話だと思うんだけど」
「あのねぇ……」
何と言う馬鹿馬鹿しい例えだ。サクヤの脳内では“ヘラの生き残り”という存在は珍獣に等しいらしい。からからと笑うサクヤの前で頭を抱えるナギ。と、その笑い声が止む。何とも言えない無音の間があった。サクヤは小さく吐息をつく。それは意を決するための儀式だ。
「……その子は重荷を背負うために生かされたわけじゃない。その子に課されるとすれば、幸せに生きることそのものなんじゃないかな。僕は、その子が今幸せに過ごせていればその場所でいいんだと思う」
ナギはただ言葉を呑んだ。呑みこむしかなかった。サクヤの言葉に新鮮味はない。この手の解釈を繰り返し正当化していなければ立っていられなかったのだから、当然と言えば当然だ。何の新鮮味もない、ありきたりな赦しだ。そしてそれを今まで誰も口にしてはくれなかった。
 ナギは言葉を呑んだ。何か言わなければと思ったが喉を通らない。
「っていうのは“ヘラの少女”の話であって、僕が聞きたいのはナギ・レイウッド曹長が八番隊から転属したいのかっていうことだよ。補佐官のいきなりの転属願となると、既に地に落ちてる上層部の僕への評価もダダ滑りなわけで、いろいろ弊害が出てくるんだけど……」
そこまで矢継ぎ早に、崖っぷちの現状と想定される今後の分析を披露したところでナギが噴き出した。いや、待ってほしい。サクヤとしては心外極まりないのである。今の生真面目な解説に笑いどころはひとつとしてないのだから。
「ナギ、今は結構真面目な話をしてるところだよ」
「分かってるっ。結構も何も、あなたいつだって真面目でしょう?」
 サクヤの中では“ヘラの生き残り”は間違いなくツチノコと同等で、幸せに暮らせるならどこに居て何をしていても良い存在なのだ。そんなことよりも今一番問題視すべきは、絶対の信頼を置いている補佐官の突然の転属発言であり、それを何とか説得して回避するということである。サクヤはここ一年で一番と言っていいほどに焦っていた。そういうサクヤも珍しかったし、何より、自らの評価が地に落ちていることをそれとなく自覚しているあたりも、ナギにとってはかなりツボだったのだが、これ以上笑いをかみ殺すのもかわいそうだ。
「……問題ありません隊長。レイウッド曹長、今後もサクヤ隊長の補佐官として八番隊に所属を希望します」
それがナギの、心からの願いだ。それが叶うなら、他の物は何もいらないと思った。ここに居ていいと──居てほしいと──ただ言われたかった。
 サクヤは笑ってくれた。いつもの穏やかな微笑ではなく、目尻を目いっぱい下げて「ありがとう」と言ってくれた。その笑顔が夕陽に照らされて、とても綺麗だったから悲しくもないのに涙が出たんだと思う。その雫が、ぱらぱらと雨粒みたいに落ちてティーカップに吸い込まれていった。
 室内は鮮やかなオレンジ色。シナモンの香りに包まれて、ただ涙が止まらなかった。