episode v 魔女は琥珀の涙を流す


「ナギ」
 呼ばれ慣れたその名が、誰か見知らぬ他人の名のように聞こえた。心の奥で、そんなことはないとかぶりを振った。
「何?」
「帰ったら、君の淹れた紅茶が飲めると嬉しい」
 虚を突かれた。大仰に呼びとめて、いつもとそう変わりないことを言うサクヤ。しかしそれも少し違うとすぐに気づく。彼はたぶん、話をしようと言っているのだろう。サクヤとの付き合いも長い。これくらいの主旨が読めなくて何が補佐官か。そんな風に考えると無償に笑いを誘った。だからこみ上げてくるままに笑顔をつくった。
「じゃあ、とびきり香りの良いのを」
 ナギの機嫌が訳も分からず良さそうなので、サクヤも訳が分からないままつられて笑った。睡眠も食事も、単純な休息も足りていなかったが、とにかく今は早く帰っていつものようにナギの淹れた紅茶の香りに包まれたかった。


 ビフレストの事後処理は、いつにも増して熾烈を極めた。大所帯の六番隊を速やかに撤退させる、それだけで普段の倍の時間と労力を費やした。ゾンビさながらになるまでこき使った代償は高い。今後しばらくは廊下ですれ違うたびに舌打ちくらいはされるだろう。それに加えて、ビフレストの市長がとにかく話の通じないタイプだった。破損、汚損した運河とオペラ座の修理費に、グングニル滞在期間中の商業利益の損失分まで上乗せして申請してくるものだから一向に話に折り合いがつかない。この処理に関しては一番隊に丸ごと投げた。彼らの要領の悪い初動調査がビフレスト市民の反感を買った発端でもあるのだから、これくらいは受け持ってもらうのが筋である。後は、どこからともなく現れたニブル水溶液の出処や、その使用を誤魔化す方法を考えたり、討伐後のニブルの死体を解体した事実をうまくねじまげる出まかせを考えたりと、まあ最後の方は自業自得の類なのだが。
 それらをある程度片づけたときには、窓の外にはすっかり夕焼け空が広がっていた。八番隊隊長執務室の窓から見えるその色は、テーブルに並んだ淹れたての紅茶の色に似ている。カップからはのんびり湯気が立ち上り、それと同時にシナモンの香ばしい薫りが室内に広がった。
 サクヤは黙ってティーカップに口をつける。香りと、温かさを堪能しているようだった。このままソファーに横になれたらどれだけ心地が良いだろう。知らず、深い吐息が漏れていた。
「リラックスしてるとこ、こういう話もなんなんだけどさ……。今回どうして、ああいう方法に出たのかちょっと気になってるんだけど」
「方法? ああ、“餌”のこと?」
直接的な表現は憚られるので、その都合の良い単語を用いることにする。
「そうだね。まず、一晩に一人ずつ殺されるっていうのが始めから気になってた。夜間に徹底されてるのも、必要以上に無残に殺されてるのも、ひっくるめて辿り着く動機がひとつしか思い当たらなかった」
「動機? ニーベルングの動機、って意味?」
また耳慣れない言葉が飛び出した。
「そうだけど……何かおかしいかい?」
「いえ。どうぞ、続けて」
「イーグル級以上のニーベルングは破壊活動に突出してる。一体で街ひとつは壊滅させられる、言ってしまえば分かりやすい脅威だ。じゃあバーディ級以下はどうするのか。同じように脅威となろうとするなら工夫が必要だ。だから彼らは陽動とチームワークを駆使して、僕らに“得体の知れない恐怖”を与えることに徹した」
「待って。待って待って。なんでそこで恐怖心? 結果的にはそうだったよ? 気味が悪くて皆怯えて……でもそれって何の意味があるの。ビフレスト市民全員やっつけるにも相当な日数と労力が必要になるじゃない」
「……君はどういうときに、相手に恐怖心を植え付けようって思う」
 あ、また。その質問。──以前もそんな風にして、自分ならどうするかと問われた。あれはリベンティーナの時計塔でだったか。何故この男は毎度毎度なんの疑問も抵抗も無く、ニーベルングを人間に照らし合わせようとするのか。
「思いませんっ。そんなまどろっこしい真似しようと思ったこともない」
「ナギらしいね」
サクヤが思わず顔を背けて笑いをこぼす。
「前にも言ったけど、彼らの行動はあくまで手段だと僕は思ってる。破壊や殺戮そのものが目的じゃない。今回の件で、その輪郭が少し確かなものになった気がする。……僕らはどうも、ニーベルングからひどく憎まれているんじゃないかな」
 憎悪には必ず理由がある。それこそがこの世界を歪めている根幹ではないのだろうか。
「今回はその憎悪を逆手にとらせてもらった。僕らにとってあれは単なる死骸でも、彼らにとってあれは……同胞の亡骸だ。冒涜していいものではない。なかったんだ、本当は」
あの行為は人道から大きく外れている。そんなことは承知の上で実行した。あのとき呟いた通り自分たちにも守るべきものがあり、それを最優先させただけのこと。後悔は無い。ただ嫌悪感だけが今も渦巻いている。ニーベルングの眼は、怨念に満ちていた。そうさせたのは外でもない自分である。
 ナギはナギで、イーヴェル戦での光景を思い出していた。先頭のニーベルングを討ち取った際、その死を悼むように後から後からニーベルングが湧き出てきたのを覚えている。あれは生物の本能的な行動ではなかった。もっと理知的で、感傷的ではなかったか。
「……ひとつ、訊いてもいい? サクヤが思うように、ニーベルングがそういう……人間の情の部分を持ち合わせた存在だったとして、その憎まれている対象の“僕ら”っていうのは、人類っていう意味? それとも……グングニル機関?」
サクヤは曖昧に笑って、誤魔化すように紅茶をぐいと飲む。事実は不確定でも、少なくともサクヤがどう考えているかは承知することができた。それと同時に言いようのない不安が脳裏をよぎる。その思想は果たして自分たちが抱いて良いものなのだろうか。
「僕もひとつ、君に訊きたいことっていうか、確認しておきたいことがあるんだけど──」
 サクヤはただ何の気なしにティーカップを置いただけだ。その所作ひとつで場の空気が変わった。殊ナギの周辺で、空気は気体ではなくなっていた。息をとめたその一瞬で溺れそうになった。
 鈴の音が鳴る。リンと鳴る。弾けるように、歌うように、何かを祝福するように優しく鳴る。おめでとう。良かったね。貴方は解放される。貴方という偽りから自由になれる。
(ああ、それでも……)
できればもう少し、偽りに酔っていたかった。積み上げてきた虚構があまりにも幸せで貴いものだったから、許される限りすがっていたかった。それも今日でおしまい。はじめからそう覚悟して、この部屋に来た。
 サクヤの唇は動いてほしくない形に動き、発してほしくない音を発する。
「ナギ、君は、……ヘラに住んでいたことがあるよね?」
 鈴の音が鳴る。リンと鳴る。素敵なオペラの終幕を、讃えるように鈴が鳴る。
 ナギの唇は彼女の意思に反して、何とも往生際の悪い台詞を吐いていた。
「調べたの……?」
「いや? ナギに聞けば済むことだから」
その通りだと思った。聞けば一瞬で済むことを、ナギはわざわざ調べたのだった。

 ユキスズカ草。
 スズカ科。花は真っ白で、鳥の羽のような独特な質感。また、開花の際に揺れる胚珠から鈴のような美しい音が鳴ることからこの名がつけられた。

「……じゃあ、違いますって言ったら、それで納得する?」
「ナギがそう言うなら、そうなんだと思うよ」

 内陸の寒冷な平地に根付きやすいようだが、その生育条件は厳しく解明されていない点が多い。現在分布が確認されているのは中央・アルブ地区の一地域と西部・ヘラ地区のみである。