episode vi ジェリービーンズを7つ


 ナギは通りを眺めていた。朝と言っても日が昇って久しいこの時間帯は、緊張した面持ちでオープンカフェの一画を陣取っている彼女のような存在の方が異質である。目の前の通りには、それぞれの一日をそれぞれの形で始めようと行き来する人々で溢れかえっている。そんな賑わう街角から切り離されたかのように、ナギは一人、唇を真一文字に結んで座っていた。
 視線をテーブルに落とす。二杯目のミルクティーが底を突こうとしていた。
「午後は雨になりそうだね」
 突然振って来た声よりも、突然ひかれた向かいの椅子の音にびくついた。当然のように座る男は、寄って来たウェイターにコーヒーを頼むと、抱えていた紙袋からスモークサーモンのサンドイッチを取り出した。朝食は摂っていなかったらしい。悪いことをしたなと、ナギは胸中で詫びた。
 緊張の理由はいくつかあったが、そのひとつは間違いなくこの状況にある。非番の日に、私服で、グングニル塔外でサクヤと会うというのは、そうそうあることではない。なんてことをいちいち気にしているのは相変わらずナギの方だけで、サクヤは通常運転だ。コーヒーを運んできた無愛想な給仕に、にこにこ御礼を述べている。
「それで……その、どうだったの?」
「残念だけど、ヘラ・インシデントの前後一年の記録だけがまるまる抜けてたよ。第二層以下に保管されているか、そもそも無いかのどちらかだ。僕らが思っているより隠匿されているみたいだね」
予想していたのか、サクヤは何でもないことのように淡々と事実だけを述べた。ナギも調子を合わせて気の無い返事をするが、胸中では派手に嘆息をかましていた。
 ナギがサクヤに依頼したのは、11年前、即ちヘラ・インシデント当時のグングニル第二番隊についての情報だ。崩壊したヘラで、唯一の生存者を救出した二番隊──ナギが知りたがったのは、命の恩人についての情報で、他意はない。塔内の図書室には過去5年間の記録しか保管されないから、それ以前の記録は一般隊員の入室が許可されていない地下の資料室にあるのだろうと漠然と考えた。そういうわけで意を決して、サクヤに地下へ赴いてもらったのである。但し、彼の権限で閲覧できるのも地下第一層まで。僅かな希望も、ここで手詰まりというわけだ。
 ナギは改めて、深々と嘆息した。あてつけのつもりはない、気持ちを切り替えるためだ。
「まあなんていうか……絶対知っておかなきゃってわけでもなかったし、いいんだけど……でも、ちょっと気持ち悪くもあるよね。たった11年前のことなのに、誰も何も知らなくて、そこだけぽっかり情報が抜けてるっていうのも」
「そうだね。ちょっと気持ちが悪いというか、吐き気がする程度には」
サクヤは先刻と変わらぬ調子で強烈な皮肉を吐く。彼にとって、それが何であるにしろ「情報が隠ぺいされている」というのは、容認しがたい状況なのだろう。妙なところに火を付けてしまったようだ。
「それはそうと、もうひとつ気分の悪い報告があるんだけど聞くかい?」
「えーと……そうだね。とりあえず、サクヤの食事が終わってからにしようかな……」
 サクヤもその通りだと言わんばかりに大きく頷く。食事は美味しく楽しく。たとえ、天気がぐずぐずで遠雷なんかが鳴っていようが、休日にふさわしくない物騒な話題しか持ち合わせていなかろうが関係ない。サクヤは手早く最後のサーモン片を呑みこむと、追加のコーヒーを二人分注文した。
「レーヴァテインの代表、覚えてる?」
 サクヤの切り出しに、ナギは反射的に眉を潜めた。覚えているもなにもない。
 大陸最大規模のニーベルング信仰団体“レーヴァテイン”──ニーベルングを神格化し、共存を図るのが彼らの教義であり目的。その目的達成の要として、代表であるシスイ・ハルティアは何故かナギを指名してきたのだ。それもかなり手荒な手段で。
「覚えてるもなにも……選ばれただとか、人類を導く巫女だとかなんとか。なんだったっけ、還元すべきチカラ? を私が持ってるとか……」
いや──それだけじゃない。何か、根本的に妙なことがあのときあったはずだ。その気持ち悪さに似た違和感は、その後しばらくつきまとっていたはずなのに何故かすっかり抜け落ちている。思い出せ。シスイは何か、とんでもないことを口にしたのではなかったか。
「声が、出るようになったとか」
心臓が早鐘を打つ。シスイは、ナギの名前を知っていた。ナギの声が、かつて出ていなかったことを知っていた。そして、随分昔に一度会ったことがあるとも。──とある特殊な状況と場所で。
 体中からさざ波のように血の気が引いて行くのが分かった。口元を覆う。気持ち悪い。気持ちが悪い。吐き気がするほど綺麗にパズルピースがおさまっていく。
「シスイ・ハルティアが……あのときの二番隊に居た、ってこと?」
「断定はできないけどね。インシンデントより五年前の隊員名簿には彼の名前があった。入隊当初は一番隊だったみたいだけど、その後転属した可能性は否定できない。彼が、当時の二番隊にいて、“ヘラの生き残り”を救出した一員だと仮定すれば──」
「つじつまは合うね。確かに、気持ち悪いくらい」
苦虫をかみつぶしたような渋い顔で、ナギはなんとか苦笑いをつくった。
「声が出るようになったんですね、とか言ってたんだよね。……そのとき気付くべきだったのかも。私が、“声が出せないショック状態”にあったのは、ヘラ・インシデント直後から半年くらいだったから。……っていうことは、あの男は私が“ヘラの生き残り”だってことを初めから知っていたってこと、よね?」
「だと思うよ。要するに、ニブル環境下に完全に適応する能力に目を付けたんだろう。目を付け続けていた、っていう方が正しいのかな」
「待って。それ、本当に気持ち悪いから」
言いながら全身総毛立つ。ナギは、変質者を眼前にして身動きがとれなくなった少女のように両腕を抱えた。ちなみに眼前にいるのはサクヤであってシスイでも変質者でもないのだが。
「うわー……そっか、いろいろ分かってきた。あいつが言ってたのは、私が持ってるニブルの適応力みたいなものを、人類に提供しなさいって意味よね? って言ったって、自分でもどうしてそうなってんのか分からないんだからしょうがないじゃない」
「突然変異、生まれつきってことなら原因を探るのは難しいな。……ご両親は、どうだったの」
「両親? 父さんと母さんは──」
 その単語ですぐに頭に浮かんだのが、ディラン・レイウッド。引き取り手であるレイウッド家の家長、グングニル中部第二支部の長、ニダ区を統べる牧場主、ナギの名付け親で育ての親。──いやいや、違う。遺伝の話をしているのだから今は実の両親の話だ。と、意識的に頭を切り替えたはずが、すんなり出てこない。その記憶の扉には厳重に鍵がかかっていて、何故かすぐ近くで鈴の音が鳴るだけだ。
「……ナギ」
 リンと鳴る。鈴の音。ユキスズカの開花の音。美し過ぎる、警鐘。
「ナギ」
サクヤの声は落ち着いていた。ただ、軽く揺さぶったつもりのナギの肩は案外に激しく揺れた。
「ごめん。今のは考えなしの質問だった」
「え、ううん。こっちこそ。ごめん。うまく……出てこない、けどニブル耐性とかは無かったと思う」
 それを証明する出来事があったはずだが、それについては思い起こすのを止めた。その一連の手順に罪悪感を抱く自分がいる。うろ覚えの母の笑顔、おぼろげな父の背中。鍵つき扉の前に佇むのは靄のかかった嘘か誠かも分からない虚像だ。
「サクヤはどう思う? 本当にこれが“チカラ”だと思う……? 今の世界構造を変えるような……?」
「さあ、どうかな……。重要なのは君がどう考えるかだし、それに、僕の意見は前に言ったとおりだよ」
 ──その子が今幸せに過ごせていればその場所でいいんだと思う──良くも悪くも世界の一構成員でしかない人間が、その一個人が世界に対して権利だの義務だのを持ちだす方がどうかしている。そう思うから、サクヤが言ったことは嘘いつわりの無い本音だ。ただ、そうは思わない者が多いのも事実である。