「チェック」
「ぬおっ。……待てっ、いや待ってください。今のは話しながらだったから無しだっ」
「いいけど、五手戻しても結果は同じだと思うよ」
バルトの沈痛な唸り声が響く。どうやら二人はチェスボードを囲んで話をしていたようだ。
ナギはそこまで立ち聞きして、静かに踵を返した。長い廊下の途中で、気付けばジェリービーンズの歌を口ずさんでいた。元気の無い子に空色ビーンズ、嘘吐きさんには泥色ビーンズ。
別に珍しい例ではない。十人集まれば三人はニブル病患者がいる世の中だ。重軽度の違いこそあれ、自分がその三割だったからといって不運だと思ったことはない。ニブルによる肺病で長く床に伏した母、その最期を看取ったのも自分だ。サクヤにとって、ニブルは随分と身近な脅威で、ある意味で彼の人生にぴったりと寄り添ってきた存在でもあった。
病状を正確に把握し、終わりを客観的に見極め、そこから逆算していけば、自らのとるべき行動は非常に分かりやすく理にかなったものになる。ニブル病など抱えていなくても、ある日突然生涯に幕を閉じた仲間も多く見てきた。それらを思えば、特に悲観する要素は無いと考えていた。だから八番隊発足時に、隊員たちには自分の体のことを伝えておいた。
独りで酒を呑むと、こんな風に生産性の低い考えばかりが頭をよぎる。塔内にいると、隊員たちが、上司が、知り合いが、ここぞとばかりに話題を持って執務室にやってくるから、サクヤはそれを避けて市街のなじみの店に来ていた。一人の時間を得るために、定期的にここにくる。そういう時間は誰しもに必要だと感じているからだが、今日に限っては一人になりたくてここへ来た。必然、酒の進みも早くなる。
「いらっしゃい」
顔見しりの店主の、聴き慣れた声が頭の片隅で響く。
「……お。呼ばれて来たのか?」
「? 誰に?」
来店した客の声も、聞き慣れたそれだった。知り合いだろうなと漠然に思うだけで確かめもしなかった。その軽い足音が店主と共にこちらへ近寄ってくる。気を利かせて別フロアへ案内してくれればいいのに、などと珍しく胸中で毒づいた。
「おいサクヤ、もうやめとけ。いつもの量じゃないだろう、それ」
肩を揺さぶられ何となく顔を上げると、店主の隣にユリィが立っていた。安定の仏頂面。彼女に気を取られている間に、ウイスキーボトルが没収されていった。テーブルにはほとんど氷と水のグラスだけが取り残される。ユリィは当然のようにサクヤの前の椅子を引いた。
「完璧スマイル主義の八番隊隊長殿も、こんなになることがあるのね?」
こんなとは、具体的にどれを指しているのだろう。浅く腰かけた椅子の背に身体を投げ出してアルコールを煽っている様か、鉄仮面のようににこりともせず宙を見つめ続ける様か、いずれにせよ部を弁えていない体たらくであることに変わりはないのだが。
しばらく沈黙が続いた。グラスの中の氷山が崩れる音が数度軽快に鳴るのを聞いた後、サクヤは重い口を開いた。
「……僕は君が言うような立派な人間じゃないよ」
「? 知ってるけど?」
間髪入れずの反応に、思わず顔を上げた。が、ユリィはマイペースに自分の夕食メニューを選んでいる。よくよく考えてみれば、彼女は別段サクヤの様子を見にここを訪れたわけではないのだ。彼の心境に同調する義務もなければ、相手をする義務もない。
自分の不様さと彼女の気質を思い起こして、サクヤは笑いを噴き出した。
「そうか、そうだったね」
「何か、あった」
「いや。……振舞うことに少し疲れただけだよ」
一度笑いをこぼすと、自嘲とも苦笑ともつかない中身の無い笑みが次々と漏れた。ユリィはそれをどこか冷めた瞳で眺める。
「だったらやめればいいのに」
あっけらかんとした物言いは彼女の本音だ。取り繕う理由が全く無いから思ったままを口にする。そんな彼女のあけすけな態度を敬遠する人間も多いが、サクヤにとっては居心地の良い、慣れた物言いだった。だから今度は自然と、笑みが漏れる。
「わたし今、無理させてる?」
「そんなことないよ。僕も今さらユリィに取り繕ったりはしない」
溶けた氷と僅かなアルコールの水溶液を流し込む。喉が熱い。眼前のユリィの輪郭が、背景に溶け込むように滲んで見えた。
「……分からなくなってきたよ。仲間を疑って、傷つけて軽蔑されて、……僕は何を手に入れようとしてるんだろう」
「そんなの、私が知るわけない」
「分かってる。独り言だよ、聞き流してくれて構わない」
ユリィは瞬時に、今のサクヤが自分の手に余ることを悟った。それきり黙りこんで項垂れてしまった彼を残して席を立つ。カウンターで電話を借り、迷いなくダイヤルした。
「おい。おいおいおいおい。置いて帰ってくれるなよ。あいつがあんな風に呑むなんて初めて見たぞ」
「分かってるけど、私じゃ手に負えないから。保護者呼んで、お引き取り願う」
「ああ、まぁ……それがいいか」
店内がまだ賑わう時間帯だったから、ユリィがかけた先も客あしらいに忙しかったのだろう。七、八コールほど呼び出し音が鳴った後、他所行きの落ち着いた声が受話器から聞こえた。業務連絡さながらに状況と用件を端的に説明すると、つっけんどんに受話器を置く。義務は果たしたと言わんばかりに、ユリィは上着を抱え踵を返した。
「ユリィ。飯は? 食って帰らないのか」
「うん。会いたくないのが来るから」
ユリィとしては、会いたくないし話したくないし、できればあまり考えたくない相手がこれからサクヤを迎えに来る。その前に逃げておかないと、まともに食事がのどを通らない。認めたくは無いが、平静を奪われるのは事実なので的確に対処しておきたかった。
ユリィが店を出て三十分ほど経ったころ、出て行く人間の方が多い中で来店のドアベルが鳴る。いらっしゃいと言いかけて、店主は視線だけをサクヤが陣取る奥の席へ向けた。入って来た男は手刀を切って真っ直ぐにそこを目指す。壁と椅子の背に半分ずつ体重を預けて、瞼を閉じている弟を見つけて、兄であるアカツキは肩を落として思いきり嘆息した。そのわざとらしい溜息に、サクヤもおもむろに顔をあげた。
「あれ。兄さん……?」
「なっさけない面して飲みつぶれやがって……チビが電話してきたんだよ。何やってんだ、お前」
何をやっているのかと訊かれて、答えに窮したのは初めてだ。多分まどろんでいたのだと思うが、ここ一時間くらいの記憶が曖昧だ。ユリィと話していたような気もしたのだが。などとサクヤがのんびり考え込んでいると、アカツキはまたもや特大の溜息をつく。ユリィがさじを投げたのも頷けるというものだ。
「笑って解決できるときと、飲んで解決できるときと、それくらい自分で見極めろ。そうじゃないときはちゃんと話しに来い」
「ユリィが……通報した?」
「通報って……だから、そう言ってるだろ。寝ぼけてんのか。寝ぼけてんだろうな。どうせ潰れるならせめてうちで潰れてくれよ」
「まさか。カリンにこんなの見せられないよ」
からからと他人事のように笑うサクヤ。アカツキの額には青筋が浮かんでいる。自力では立っていられないほどに酔い潰れている割に、こういうくだらない機転だけは健在らしいことに腹が立つ。力づくで立たせてはみたが、これを連れて帰るとなると結構な重労働だ。
「帰るぞ。カリンに『やだ、サクヤくんお酒くさいっ』って罵られて、思う存分嫌われてくれ。そうしたら二度とお前のところに嫁に行くとか言いださないだろうからな」
「それは……いや、だなぁ……」
自分に向けられる無垢な笑顔を想って、言葉とは裏腹にしまりのない笑みが漏れた。と同時に、もうひとつ。別の笑顔が脳裏をかすめる。信頼と敬愛を乗せた、自分にだけ向けられるその笑顔──紅茶の香りとぬくもりが広がる、とても大切な時間だった。特別な時間だった。十分過ぎるほどに幸福な時間だった。それだけ確認すると、その記憶と感情が傷ついてしまわないように、色褪せてしまわないように丁寧に心の奥底にしまいこんだ。
さあ──失う準備は整った。閉じられた全ての扉を開き、裏返った全てのカードを表に。