規則正しく、機械的に、ナギはルーチンワークをこなしていた。その中で意図的に止めたものがある。ポットを火にかけること。キャビネットの中から気分に合った茶葉を選ぶこと。その分できた隙間時間で窓際にある枯れかけた花の調子を見る。天使の羽と称される白い花弁は、端々が茶色く痛んで頭を垂れていた。アルブとは生育環境が著しく異なるのだから、元々長くはもたないものだ。それを承知の上で、一日でも長く──花が咲こうとする限り──この窓際に置いておこうと決めた。
「おはよう。今日も早いね」
お決まりの朝の挨拶と共に、サクヤが入室。「おはよう」と返して、ナギが細密なスケジュールを説明する。朝のミーティングはそれで終わり。それ以上に話すことが、もはや無い。
「演習準備があるから私は先に行くけど、取り立てて何か注意すべき点はある?」
サクヤがスケジュールを見つめたまま微動だにしないので、何か不備でもあったのかと遠回しに訊いた。数秒、間があって、
「ああ、いや。特にないよ」
そういう返答だったから、ナギも気に留めず執務室を後にした。この後午前中いっぱいは、ユリィ率いる狙撃スペシャリストの三番隊と合同演習を行う。狙撃技術の向上と連携の確認が主な目的の、言ってしまえばやり飽きた演習だ。特別な準備も対策も別に必要ない。
10時前になると、三番隊と八番隊のほぼ全員が屋外訓練場に揃っていた。簡単な説明の後、肩慣らし程度に射撃を始める。訓練用の弾はラインタイトを用いていないから、着弾しても爆発することはない。その代わりにかなり細かい点で着色されるため、命中の精度が一目で分かる。ユリィやオーウェル補佐官の鮮やかな射撃に、毎度のことながら感嘆を漏らしてしまうのが八番隊で、それに引けを取らないシグの射撃に盛りあがるのが三番隊連中だ。
「相変わらずの化け物アベレージね」
自分の身長とほぼ変わらない銃身のライフル型魔ガン“クリエムヒルト”を肩に担いだまま、ユリィが隣に腰掛けてきた。ナギがちまちまととっていた記録用紙を無表情のまま覗き込む。
「三番隊も、バーストレベルを引き上げる話が持ち上がってるとか」
「そうね。私とミナトは持ち替えるつもりはないけれど。狙撃だけじゃ、隊としての汎用性は無いから」
ユリィは記録用紙を覗き込んだままで早口に答える。その話は今関係ないと言わんばかりの素っ気ない口調だ。嗚呼、やっぱりこの人だけはどうも苦手──などと涙目になっているところに、初めて視線がかち合った。ユリィのビー玉のような大きな目が、こちらを見つめている。
「調子、悪いの?」
「え?」
ユリィが顎先で指し示した先には、ちょうど今射撃を終えたばかりのサクヤの姿があった。記録用紙に目を落とすと、確かに前回よりもアベレージを下げてはいるが許容範囲ではある。調子が悪い、とまではいかないのではないか。それとも体調面の方だろうか。何となく、嫌な予感がしてナギはおもむろに腰を上げた。
サクヤは、射撃後の余韻に浸るかのように立ち尽くしていた。その“間”が、明らかに妙だった。ここからではよく見えないが、何か口元をぬぐうような仕草。その後、また暫く微動だにせず地面を見て立っている。
「隊長……っ」
横から駆け寄ったのはアンジェリカだった。振り向いて苦笑いするサクヤの顔がただただ白い。アンジェリカの叱咤が続いているようだが、サクヤはもういつもの調子に戻って困り顔で対応していた。ナギは、何故かここでまだ突っ立っている。すぐ隣でユリィが立ちあがる気配だけがあった。
「サクヤ、もう休ませた方がいいわ。訓練で無理させる必要、ある?」
返す言葉がない。ナギが言葉を返せないのは、ユリィの指摘が的を射ていたからじゃない。
「……余計なお世話かもしれないけど、ナギさん。サクヤの様子にそもそも気づいてた?」
後頭部を鈍器で殴られたような、重い衝撃があった。答えない──答えられないナギの後ろ姿に、ユリィが小さく嘆息する。
「勘違いしないで。あなたを責めてるわけじゃない。サクヤの体調管理は、私もサクヤの家族から頼まれてることだから」
「……いえ、こちらが鈍感でした」
それだけ口にするのが精いっぱいだった。何もかもが彼女の言うとおりなのだ。サクヤの様子──? 気付くはずがない。今日、ナギは一度だってサクヤの顔をまともに見ていないのだ。昨日も、一昨日も、その前も、もうずっとサクヤの顔を見ていない。自覚があってもどうしようもないではないか。
「失礼します」
サクヤは、たぶんアンジェリカと共に医務室に向かったのだと思う。追うのはやめた。行ったところで、自分に治療ができるわけでもない。気まずさと惨めさを味わうだけだ。そんなのはもういい。もう充分だ。
そうして、なし崩し的に終了した演習。サクヤ不在の午後、ナギは一人黙々と机仕事に専念した。こういうとき補佐官で良かったと思う。忙しいふりが、それほど難しいことじゃない。その間に、砕けたいくつかの平静を取り繕う必要があった。
一切の雑念も無く、無心でまとめた報告書は夕刻には仕上がっていた。それを結局のところサクヤに一度提出しなければならない。迷った末に、ナギは八番隊執務室の両開き扉の前に立っていた。主不在を狙ったつもりだったが、サクヤは既に医務室からこちらに戻っていたようで中から話声が聞こえる。ノックの手を寸止めして無意識に耳をそばだてていた。低音が二つ、談笑しているようだった。
「ここんとこずっと覇気がねぇなと思えば、これだもんな。若いのがみんな心配してるぜ。ナギとなんかあったんじゃないかってな」
ごふっ! ──ティーカップに口をつけた絶妙なタイミングを見計らったおかげで、サクヤが珍しく派手に動揺してくれた。口元をぬぐいながら咳き込むサクヤを見て、バルトは豪快に笑い飛ばす。
「はっはっは! っていう冗談はまぁこのあたりで置いといて、だな。……体調、良くないんだろう。アンジェリカに聞いた、薬の量を増やしてるみたいだってな」
「アンジェリカも、バルトには安心していろいろ喋るんだなぁ」
「茶化すなって。そういうふうに中途半端に誤魔化すと周りはいろいろ勘ぐる。そうでなくても、俺たちゃあんたに無関心でいられない」
「いや、参ったな。誤魔化してるつもりは全く無いんだけど……とにかく、心配はいらないよ。体ももうこれで慣れてる。みんなにもそう──」
「そう振舞わんでもいいじゃねぇか」
バルトの嘆息は、ちょっとした呆れと、感心と、多くは心配という成分で構成されていた。普段は部下として、八番隊の一隊員として振舞うバルトもこういうときには兄貴面。サクヤの良き相談役として立ち回る。
「確かにあんたは優秀だが、まだ若い。先があるんだ。こんなところで無理する必要はないだろ」
サクヤは脳裏をよぎったいくつかの言葉を、選別して飲みこむ。バルトは暗に、こんなところ──グングニル機関を離れることを選択肢に入れろと言っているのだろうか。確かにここで魔ガンを手にする限り、自分はこの、ままならない体と付き合っていくことになる。かと言って、ここから遠ざかったところで結果は同じだ。体内を侵食し続けるニブルが、綺麗さっぱり消えて無くなることはない。
「ありがとう。でも本当に大丈夫だ」
「……それならいいんだ。体もだが、ナギとのことも早く何とかしてくれよ。やりにくくって集中できやしねー」
適当に応答しながらサクヤは笑っていた。バルトはこう見えて、ナギのことに関しては探りを入れてきている。アンジェリカから含まされたのか親心からかは分からないが、下手をうつわけにはいかなかった。