episode vii 朔の夜


 歩いている床は固いはずだ。コツコツと踵を鳴らす音が聞こえる。が、足元の感覚を支配しているのは泥沼の上を進んでいるような不快な柔らかさで、それが彼女の世界の確かさを奪っていた。前に進んでいるのかどうかも不明。今何時で、何を着ていて、どうして自分がここにいるのかも分からない。そこには数えきれないほど多くの視線があった。右目に嫌悪。左目に侮蔑。

──こちらがする全ての質問に、虚偽なく答えてください──

 響き渡るその声に「はい」と答えた。聞いたことの無い声だと思ったが、答えたのは確かに自分だ。促されるまま血を吐くように自分の名前を口にした。
 たたみかけるように次々と問いが降ってくる。ナギはただ「はい」と「いいえ」を発する機械になって、口元だけを稼働させていれば良かった。そういう自分をどこか遠くの他人のように置き去りにして、頭の中ではこの一ヶ月の出来事を延々とリピートしている。数えるほどしかなかった会話のひとつひとつを拾い集める作業に没頭していた。
 窓を開けると刺すような冷たい風が入り込む執務室。微かに漂う紅茶の香り。他人には分からない規則性で積み上げられた机上の本。廊下に出て八番目の扉を開けるだけで会える、彼女の愛おしい日常──。


 扉の前で律儀に所属を告げてノックをしてみたが返事はない。一拍置いてナギは両開き扉の片方を押しあけた。
「またいない……」
空の執務室で独りごちる。
 最近のサクヤはよく執務室を空ける。非番の日はグングニル塔自体にいない場合も多い。業務にも訓練にも、もちろん作戦にも支障をきたすことはなかったが、八番隊の日常には何かぽっかりと穴が空いたような空虚さが漂うようになった。が、そんな風に感じているのはもしかしたら自分だけかもしれないと思うこともある。以前と変わらず、隙間時間にはバルトやサブローとチェス盤を囲んでいるし、リュカと賑やかに食事を摂っている姿も見かける。独りで調べ物に没頭しているなんてのは今に始まったことでもない。
 ナギは執務机に向こう一ヶ月のスケジュールと勤務表を置いた。今日の夕方の汽車で、彼女は古巣である中部第二支部へ向かう予定だ。情報共有と視察のための定期的な支部巡回で、普段は二、三日といったところだが、今回は新隊員の指導のために一ヶ月をあちらで過ごすことになっている。
 出発まで二時間。何をするでもなく、ソファーに腰を沈めた。しばらくは置時計の針が進む音にただ耳を傾けていたが、流石にあんまりだろうと思い身を起こす。意を決したようにチェスト横に歩み寄り、ポットを火にかけた。
「あ」
 扉が開く音に振り向くと入口にサクヤの姿があった。口元に手をあてがったまま、こちらを気に留めるでもなく突っ立っている。かと思えば唐突に深呼吸をし始めた。溜まりにたまった悪いものを二酸化炭素と共に根こそぎ吐きださんとばかりに、深く、長く、息を吐く。
「……いい香りだ。一杯もらえるかい?」
「え? ああ、うん。もちろん」
 ナギの在室には気付いていたらしい──香りで察したともとれるが──驚いて姿勢を正すナギをよそに、サクヤは嬉しそうに微笑んだ。紅茶がティーカップに注がれる音を背に、真っ直ぐ執務机に向かう。置かれていたスケジュールに立ったままで目を通した。
「戻りは一ヶ月先だったね。休暇ってわけじゃないからそうもいかないだろうけど、少しゆっくりしてくるといいよ」
「ゆっくり……。そうだね、うちは家長があの人だからのんびりした空気とは無縁だと思うけど、リフレッシュにはなるかな」
つい本音が口をついて出た。一ヶ月あれば何もかも終わっているのではないかと、そうしてまた以前のように、何事も無かったかのように過ごせるのではないかと、ナギは都合の良い願望を抱いている。その浅ましさがこぼれ出てしまった。
 視線を落として差し出したティーカップの中身が波打つ。乾燥した茶葉を濾して抽出されただけの単なる液体に過ぎないそれを、サクヤは愛おしそうに見つめた。何か特別な儀式のように、ゆっくりと口をつける。そしてまた、柔らかく微笑んだ。見慣れた光景、見慣れた表情のはずなのに、ナギにはそれがひどく懐かしいもののように思えた。
 暫くの沈黙の後、ナギは意を決して顔をあげた。
「……まだ、疑ってるの」
サクヤはすぐには答えなかった。ポーズなのか、残り僅かになった紅茶を黙って飲む。
「サクヤ」
「さあ……どうかなぁ」
まさかのぞんざいな回答に、ナギも思わず口元をひきつらせる。確かに無関係を主張したのは彼女の方だが、こうも露骨に鬱陶しがられるとは思っていなかった。だからこちらも露骨に青筋を浮かべてやる。
 サクヤは困り顔で小さく溜息をついて、空になったティーカップを置いた。
「おかしな話だけど、僕は初めから君を疑ってはなかったよ。物理的にファフニールを撃てるのがナギだけだったとしてもね」
「何、それ」
「だから前置きしたじゃないか。おかしな話だけどって」
「そういうことじゃない。私は私個人の話じゃなくて八番隊の話をしてるんだけど。……もう十分調べたんじゃないの? まだ疑わなきゃ駄目?」
「……疑ってはいないよ。網にかかるのを待ってはいるけど」
平然とそう言ってのけるサクヤに、ナギは二の句が告げずに口をつぐんだ。俯くナギの胸中を見透かしたように、サクヤはまた小さく溜息をつく。
「よそう。僕らはこのあたりの価値観が一致していない。何度やってもこの話は平行線だよ」
「……分かってる」
それはあの日のやりとりで十二分に承知している。サクヤと自分とでは「大切なもの」の順序が大きくかけ離れているだけの話。そしてそれが、ナギにはどうしても受け止められない。サクヤも彼女に理解を求めようとはしなくなった。
「ごちそうさま。向こうに着いたらレイウッド大佐にも宜しく伝えておいて」
 自分の席に座ることもなく、サクヤはいくつか分厚い読本を抱えて執務室を後にした。


 ──思えばこのときが、最後のチャンスだったのかもしれない。望まぬ結末から逃げ続けてきたナギに与えられた、最後の慈悲と選択肢。それらからも結局彼女は眼を逸らしたわけだ。逃避は罪になった。そしてその罪には然るべき罰が用意されていた。
 それが今。グングニル本部地下一階の査問会場で、閉じられた質問が繰り返される。抜け殻の自分が本体になり代わって答えてくれる間にもう少しだけ、彼とのやりとりを辿ろうと思った。できれば笑った顔がいい。何でもない話を随分楽しそうに聞いてくれる、朝の隙間時間へ帰れるなら永遠にそこに留まってもいいとさえ思った。だのに意識はそれを許さない。リピートを許さない、逃避を許さない、終わりへ終わりへと精神と肉体を押し流していく。
 終末を告げるベルの音が頭から離れない。脳裏で繰り返されているのは実はその音だったと気付く。
 受話器をとりたくない──記憶の中の自分は既に手を伸ばしている。真鍮の受信機を通して交換手が告げた名で、ナギにとっての終わりが始まった。