episode vii 朔の夜




「どうしたの? 通信なんて珍しい。何か、あった」
 声を聞くのは実に三週間ぶりだった。だから平静を装うのに意識的に一呼吸置いた。
 ナギは中部第二支部での三週間を実に平和に過ごしていた。無論、ニーベルングは日々出没するし、訓練も会議も本部以上に行っているから暇を持て余していたという意味ではない。サクヤが絡まなければ、ナギの日常は真に「日常」たりえるのだ。
「もしもし? ……サクヤ? 聞いてる?」
最初に「やあ」などと他人行儀に挨拶したっきり、サクヤは黙ったままだった。彼が黙りこくるのは大抵の場合考え事を巡らせているときだったが、今はそれにふさわしくない。と、向こうにも何か一息つくような間があった。
『ああ、ごめん。ナギの声を聞くのは、なんだか随分久しぶりだと思って』
機器を通して聞こえるサクヤの声は少しくぐもっている。ひとまず何でもないふうに生返事をしたが、鼓動が早まったのが自分でも分かった。わざわざ口にはしないがナギも同じ感慨を持っていたからだ。
『そっちはどうだい? もう雪が積もりはじめてるって聞いたけど』
「ん、まあ寒くはあるけど訓練にも討伐にも支障は無い、かな。もう暫くするとじゃんけんで雪かき当番決めなきゃいけなくなるけどね」
受話器越しにサクヤが笑う声が聞こえる。その様が目に浮かぶようだった。相変わらず何でもないことでよく笑う。ナギがよく知っているサクヤがそこに居るようで、思わず「そっちは?」と返しそうになるのを飲み込む。そうやって再び訪れた沈黙は長くは続かなかった。
「ねえ、そういう確認じゃないんでしょう? ……何なの。何か──」
『今日中に、どうしても君と話をしたい』
 今度はナギが黙る番だった。黙ると同時に息が止まった。
「それは、戻れ……っていう意味、だよね。今日中は無理だよ。今すぐ発っても夜中になるわけだし……」
『それで構わない。戻るまで待つよ』
「だから、夜中っていうのは例えの話で……っ。今すぐになんて実際には無理でしょ? それに──」
その話とやらはできれば聞きたくない。ナギの胸中を察したのか、受話器の向こうでサクヤが苦笑を洩らすのが分かった。
『ナギ。誓願祭の夜に、君に言ったことを覚えてる?』
「────は?」
どうしてこう彼の話にはいちいち脈絡がないのか。唐突、遠回しな帰還命令の御次は数カ月前の話題にワープ。慣れているとはいえついて行く方も必死だ。誓願祭の夜? 例年と変わらず皆でバーベキューと花火を楽しんだ──と高速で記憶をまさぐったところで、例年とは違うことがあったのも思い出した。
「え……はあ!? 覚えてって……それ今関係ある!?」
勢い任せに怒鳴ったのに、あろうことかサクヤは声を殺して笑っている。どこまで人を小馬鹿にしたら気が済むのだろうこの男は。
『覚えてるならいいんだ。約束するよ。どっちに転んだとしても、……僕が生きている限りは君を守る』
「ちょ……っと、待って。何の話……? サクヤ、何するつもり?」
『責任を果たすだけだよ』
「そういうことじゃなくて……!」
サクヤは沈黙で以て、それ以上の具体的な話を拒んでいるようだった。ナギの心臓はこれ以上ないくらいに早鐘を打つ。
『これ以上は通信では話せない。もし間に合わなくても、君は君の思うとおりに動いてくれて構わない。……じゃ、切るよ』
 待ってという言葉が声になる前に、通信は一方的に切られた。待って──思考がついていかない──待って──整理する時間がほしい──待って──手足がしびれて動かない──お願い、待って──このままじゃ間に合わない。
 ナギは次の瞬間、訳も分からず走りだしていた。誰に何を断るでもなく、ほとんど荷物も持たないままで駅まで全速力で走る。停車中だったグラスハイム行きの汽車に、すがるように乗りこんだ。と同時に堰を切ったように溢れだす決定的な不安。もはや胸騒ぎの域を越えている。整わないままの呼吸と鼓動が思考を妨害し、ナギの冷静さを根こそぎ奪っていった。それでもこれから起こるであろうことの本質だけは理解できていた。
 ねじれた世界が元に戻ろうとしているのだ、と。
 

 それから自分の眼で見たことを、実のところナギは断片的にしか覚えていない。
 深夜のグラスハイム市は死んだように静かで、黒一色に塗りつぶされていた。月が無いだけで夜とはこうも異質なものかと思い知る。普段は賑やかな星さえも、何かを察してなりを潜めていた。
 ナギの視界には、黒い背景に影だけがぼんやりと浮かぶグングニルの本部塔があった。静かだった。その耳慣れた爆発音が鳴り響くまでは、ただ美しいだけの静寂の世界だった。
 魔ガンの発砲音と共に、グングニル塔が激しく揺れたように錯覚した。実際揺れていたのかもしれないが、市街地から見上げただけでは確信できない。何度か瞬きした、ただそれだけの間に視界の配色はがらりと変わっていた。黒一色だった夜のキャンバスに、月よりも白く、星よりも明るく、「それ」はグングニル塔を足場にして羽を広げていた。
「ニーベ……ルング」
それを天使と呼ばないのならば──おそらくそういう呼称の生き物だ。ただナギの知っているニーベルングとはいささか異なるようだった。それは要塞のように巨大、それは神の御使いのように純白、それは息をのむほど美しく完成された一枚の絵画のようだった。
 見惚れている間にも魔ガンは鳴り響く。今度は二度、三度、塔の至るところで花火のように爆発の明かりが灯った。当然火の手があがる。白いニーベルングの出現から一分と経たず、グングニル本部はクリスマスツリーさながらに彩られ、漆黒の世界を鮮やかに照らす燈台となった。
「なんであんなのが中央にいるの……」
こぼれおちる疑問に、ナギは自ら答えを出すことができる。ただしそれを肯定してしまえば、もう身動きがとれない。握りしめたブリュンヒルデは意味を成さないハリボテに成り下がる。頭を振って歩を進めた。とにかく今は塔まで辿り着くのが先決だ。
 魔ガンの発砲や、白い超アルバトロス級ニーベルングの地団駄で大地が震える。眠りについていた街は連鎖を起こして次々と明かりをともす。赤ん坊の泣き声が聞こえる。飼い犬が威嚇を繰り返す。真夜中の市街は一瞬にして、太陽がないだけの昼間のように騒然とし始めた。
 ようやく塔が射程に入ったところで、ナギは無心でブリュンヒルデを構えた。ほとんどの隊員は当然のことながら内部から応戦しているが、ここからなら致命傷とまではいかなくてもかなりの痛手を負わせることができるはずだ。撃つべきだと、漠然と思った。目の前にニーベルングが存在し、それが人を襲っているのなら考える余地などないと思った。
「ナギ! 撃つな!」
が引き金に指をかけたところで、横から飛び出してきた何者かからセーフティーハンマーを無理やり下ろされる。ほとんど体当たりとしか言えないそれのせいで、二人して無様に倒れ込むことになった。
「何……!」
「撃つなよ……っ! っていうか何でここに……」
覆いかぶさってきたのは、シグだった。珍しく余裕が無い。混乱をそのまま口にする。
「ねえ、意味が分からない……! 撃つなって何!? 本部が襲われてるんでしょう!? それに放っておいたら市街に……!」
「さあね! 意味が分からないのは俺も同じだから、その質問には答えてやれない! ……こういう状況で、あのニーベルングはサクヤ隊長だって言っても、すんなり理解してくれるとも思えないしね……!」
「……シグ、ふざけないで」
「理解しなくていいから、とにかく撃たないでくれ」
シグは淡々と吐き捨てて、立ち上がった。