「口を慎みなさい。貴方の言うとおり、つじつまは全てにおいて合う。この事実を覆す証拠がない限り、機関はこれを公式発表とします。八番隊は本日を以て解体、十ヶ月の執行猶予の後、投獄。……ただしこの十ヶ月以内に、サクヤ・スタンフォード、識別名“サギ”を討伐、ファフニールを奪還した場合は無罪放免とします」
「無罪……?」
「そうです。“サギ”は現状最も危険なニーベルングであると同時に、グングニル機関発足以来の汚点です。早急に処理する必要がある。そのために“サギ”討伐特別部隊・零番隊を新たに組織します。八番隊隊員には全員に等しく、零番隊への参加権利がある。ナギ・レイウッド曹長、貴方はどうしますか」
何、この質問──馬鹿げてる。さんざん脅しておいて今さらどうしますか、だって? ──まるで選択の余地が残されているような言い草だ。
唇をかみしめる。鉄の味がした。執行猶予は十ヶ月、その間に“サギ”を討ち、ファフニールを奪還する。与えられた使命は至って単純だ。
こみ上げてくる全ての感情を押し殺して、ナギは鉛と化した唇を静かに開いた。
月が無い。月が無ければ、夜の空はこんなにも闇一色なのか。視界の端から端まで、区画整理でもするように規則正しく空を見た。星はあったのかもしれない、あるに決まっている。しかし分厚い雲に覆われれば、あっさり行方をくらますような存在だ。
壁と屋根の半分を失った屋内演習場は、冷蔵室のように冷えていた。ナギは何をするわけでもなく、隅のベンチに座って闇を見つめていた。
「ナギ」
背後から聞こえた自分の名を呼ぶ声にも、応えるのが億劫だった。誰にも会いたくなかった。とりわけ、この声の主には。
返事をするわけでもなく、視線をよこすわけでもないナギの真正面に、シグは立った。
「……何か用」
「ご挨拶。ナギのおかげでこっちは“サギ”の強襲を手引きした実行犯扱いだってのに」
「そう。悪いんだけど、昨日のことはほとんど覚えてないの。迷惑をかけたなら謝る。……他に用が無いなら、消えて」
何をするわけでもない。そして何を考えているわけでもない。思ったことをそのまま口にした。
「……わざわざこんなところにいるのは頭冷やすためかと思ったけど、そういうわけでもないんだな。サギも機関も“零番隊”の連中も、もう動いてる。……呆けてる場合じゃないと思うけど」
「忠告? だったら余計なお世話。私は──」
立ち上がろうと視線を上げた刹那、額に押し付けられた銃口とコッキング音で、ナギの頭の中は再び真っ白になった。
「ナギはファフニールの在り処を知ってるんだろ?」
「どういう、意味」
「そのままだよ。サクヤ隊長と結託するならナギの他にはあり得ない。最後の通信で、あの人と何を話した? 俺たちを陥れて、あんたたちは何を得ようとしてるわけ」
手から、足から、全身から力が抜ける。立ち上がる気力はもう無かったから、それらは既に不要だったといえばその通りだ。空気が冷たい。銃口が冷たい。シグの瞳が冷たい。全てが冷えきっていて、凍えてしまいそうだった。
「ナギ、答えて」
喉が、唇が渇いている。寒さのせいだと思った。シグの吐く息も白い。長い息が煙のようにただただ立ち昇っていった。と、その白いもやが一瞬視界を覆い尽くすほどに広がる。シグは溜息と共に銃を下げた。
「……っていうのが“零番隊”の見解ね。その気になれば、ここで無防備にぼんやりしてるナギを狙撃して、全部押し付けて葬り去るっていうこともできなくはない。現に今、俺にはそれができた。……もしもし? 俺の言ってること分かるよな」
「分かる。でも、もういい。充分」
金縛りは解けた。ナギは立ち上がって、踵を返す。ここはとにかく、寒すぎた。
「ナギ。敵は、ニーベルングじゃなくなった」
「分かってるっていってるじゃない」
「いや、分かってないでしょ。銃突き付けられたまま無抵抗なのがいい例。ナギに八番隊は撃てないよ。──だから、俺と契約しない?」
「は?」
「サギを討つにせよ他のニーベルングを討つにせよ、俺のローグとヴォータンじゃ難しい。バーストレベルの高い魔ガンがどうしても必要だろ。ナギはそれにうってつけ。……俺がナギを利用する換わりに、俺はナギのボディーガードを引き受ける」
「ボディーガード?」
「そう。例えば今、第二演習塔から監視してるどっかの隊の覗き魔を撃ち落としたりとかね」
シグは言いながら、先刻までナギに突き付けていたハンドガンを無くなった壁の方へ構える。二人の視線の先で、確かに人影が動いた。
「……っていう風に悠長に構えると逃げられるんだけど」
シグはバツが悪そうに銃を下ろし、唖然とするだけのナギに向き直った。
「で、どうするの? そのまま阿呆面さらしててても何も始まらないと思うけど」
「阿呆面は余計」
ナギは嘆息ついでに右手を差し出した。寒さで震えていた。寒さのせいだと自分に言い聞かせた。シグはいつもと変わらず平静ぶって、その手をとる。失ったものばかりの中で、シグの手のぬくもりだけは確かなものとしてそこにあった。本当は、この状況下で変わらないものがあるのなら、それにしがみついていたかった。ただそうした瞬間に膝から崩れ落ちてしまう予感があった。
だからほんの一時だけ、その手を握って離す。ナギにはやらなければならないことがある。そのためには両の足でしっかりと立っている必要があった。例えその足を動かす脳が、心が凍りつきひび割れてしまったとしても、血を吐きながら立って歩く。それが、ナギ・レイウッドとして逃げ続けてきた人生に課された罰だ。与えられた猶予は十ヶ月、ナギは魔ガンを撃つ覚悟を決めた。
こうして、サギによるグングニル本部強襲の真実は、鍵付きの情報として一部の限られた者たちにだけ公開されることになった。即ち“零番隊”、サギ討伐を専門とする特別小隊である。小隊と言っても名ばかりで、その中身は最終目的だけを共有した完全個人主義の寄せ集めだ。ある者は上層部からの命を受け、ある者は名誉と手柄を欲し、ある者は信念と正義感を振りかざし“零”の任務に着いた。
言うまでもなく元八番隊の隊員たちは、いささか事情が異なる。彼らにとって、“零”の任務は絵踏みそのものだ。サギ──かつての隊長を討ち「自分は共犯者ではない」ことを証明するか、存在するかどうかも分からない共犯者を炙りだし突き出すか。そのどちらを優先するにせよ──何を真実に仕立て上げるにせよ──自らの身は自らで守るほか無い。なぜなら零番隊という隊を統べる長は無く、守るべきルールも協力する義務も無い。誰を疑い、誰を欺き、誰を陥れるかも自由だ。それこそが零番隊に課せられた唯一のルール、暗黙の了解であると言えた。
ナギは繰り返し、その夜を夢に見るようになった。純然たる夜、星さえも隠れる漆黒、瞼を閉じたときに広がる無限の闇と同じ世界。ナギはその冷えた感覚をよく知っていた。記憶の中の鍵付き扉の奥、あの中から漏れてくる空気によく似ている。そのせいで、夢はいつも知らぬ間にその時、その場所へと強制ワープするのだ。
リンリンと鳴るユキスズカ草を踏みつけて扉の前へ歩み寄ると、それが実は床下の扉だということに気づく。何でもありだ。夢か現かと言われれば、間違いなく夢なのだろうと確信できる。
それは開けてはならないと教えられた、説教台の下にある古びた木の扉だ。先刻まで何重にも巻かれていた南京錠は見当たらなくなっている。やはり、その都度改変されていく都合の良い精神世界のようだった。扉を開ける。その先に延びる古びた石の階段を下る。暗い。暗い。暗い。まるで地獄の底のように真っ暗だ。上の世界で悲鳴が上がる──すぐ隣でも悲鳴が上がる。上の世界で咆哮が上がる──すぐ隣でも咆哮が上がる。隣には誰がいたんだろう、ふとそんな疑問が脳裏をよぎった。その部分は、紙をぐしゃぐしゃに丸めたような音と感覚に支配されて再生できない。スキップ。スキップ。スキップ。扉が開かれ、光が差しこむところまでスキップ。
光に包まれながら振り返った。隣には、誰がいたんだろう。とにかくそれを確認したかった。隣には、誰もいなかった。石の階段の下には、ニーベルングの死骸が一体転がっていただけだった。何度も振り返っては確認した。そこには死骸が一体あるだけだ。死体は無い。死骸が一体、死体は無い。ナギは心の底から安堵して、光の中から伸ばされた手にしがみついた。そしてもう一度だけ、繰り返す。
死骸が一体、死体は無い。隣には誰もいなかった、と。