ナギはもう一度、塔の上のニーベルングを見上げた。今まで見てきたどのニーベルングよりも巨大で、それそのものが発光しているのではないかと思えるほど白い。夜に溶けない異質な光景だった。それでも、どれだけ異質であろうとも、眼前のそれはニーベルングという生き物だ。人ではあり得ない。そう思って何度も見直すのに、全身が震えて止まらなかった。
シグは、理解しなくていいと言った。しかしナギは、一瞬で全てを理解した。間に合わなかった、ただそれだけの話だ。
響いたローグとヴォータンのコッキング音で我に返る。
「何で、シグは撃つの」
「……撃たなきゃ仕方ないだろ。ナギの言う通りこのままじゃ市街に被害が及ぶ」
「被害……? そんなの。だってあれは……」
「それじゃあグングニル塔が破壊されるのを待つか? その後飛び去ってくれる保証もないのに?」
「待ってよ、待って……! 言ってることおかしいよ……っ。あれがサクヤだって言うなら何で撃つの! 必要ないでしょ! こんなこと……!」
「理性なんか残ってるように見えるか!? 俺の魔ガンなら致命傷にならない、でもこのままだと他の連中がなりふり構わず討伐にかかるだろ! ナギは隊長を殺したいのか!」
「もういいやめて! おかしいよ! 言ってること全然分かんない……!」
「だから理解しなくていいって言ってんだろ。気が散るから黙って。とにかくあれを撃退しない限りは、塔内ニブルまみれで全滅だ」
そうこうしているうちに塔の側から、一際派手な爆発音が轟いた。パイ生地みたくあっけなく、壁が崩れて落ちていくのを二人は成す術も無く見守るだけだった。このレベルの魔ガンを扱える人材は限られている。サクヤの存在を除けば、ここで呆然としているナギか、リュカくらいのものだ。シグの口から舌打ちが漏れた。
「馬鹿が……!」
シグは躊躇わず二丁の魔ガンを上方に向けた。照準を馬鹿でかい両の瞳に定める。撃ち抜くつもりだった。当てる自信も技量も持ち合わせていた。そしてその役は、自分が務めるべきだとも思った。少なくとも隣で放心している彼女に、その業を背負わせるわけにはいかない。この滅茶苦茶な状況下で、ここまで理性的に判断できれば及第点だろう。
アルバトロス級の白いニーベルングに向けて、シグはいつもと同じように落ち着いて引き金を引いた。
「“サギ”の討伐失敗は八番隊の故意によるものでは?」
「……いいえ」
ナギの外の世界では、この冷めた声がずっと鳴っていた。グングニル塔の地下一階、空気はこの声と同じく冷えきっている。
突如現れ、グングニル本部塔を強襲したアルバトロス級ニーベルング、呼称を“サギ”。あの後“サギ”は、それぞれの小隊の執務室や屋内訓練場のある演習塔二棟を半壊させ、両翼を羽ばたかせて自らの意志で飛び去った。傷という傷は負わぬままだ。つまり、シグの狙撃は失敗に終わったということになる。
情報は瞬く間にグングニル内を駆け巡った。その中で明るみになったことが、八番隊隊長であるサクヤ・スタンフォード中尉の失踪、サギが現れる直前の深夜の魔ガン発砲音、そして塔内の一室から検出された「事実上ありえない」高濃度のニブル、といった事実だった。
上層部はすぐさまそれらの点同士を結び付けた。機関の公式発表は、八番隊隊長サクヤ・スタンフォード中尉による謀反というものだった。当然の流れとして、サクヤを除く七名の八番隊隊員たちは、一人一人隔離、軟禁されたまま朝を迎えることになった。
そして現在、一夜明けた満身創痍の本部塔地下では、“サギ”の出現と討伐に関する八番隊への査問が行われている。ナギはその最後の一人だった。
「では、貴方個人の判断による妨害ですか」
「いいえ。妨害は、していません」
「レイウッド曹長。虚偽なく、答えてください。貴方はシグ・エヴァンス曹長の攻撃を阻害した形跡がある。これは妨害行為だ。その理由を述べてください」
「……覚えていません」
数時間前の記憶は、グングニル塔にのしかかった白い巨大な竜の絵で占められている。後は爆発音と閃光の繰り返し。それに照らされる神々しい悪魔の姿。自分の言動の大部分は空白になっていた。
「今の発言は虚偽とみなします。理由を答えてください」
「──」
「それでは機関の見解を述べます。貴方はサクヤ・スタンフォードと共謀して今回の襲撃を企てた。違いますか」
「違います。私は、何も」
知らないのだ。何一つ。
「他の隊員に『スタンフォードと特別親しかった者』の名を挙げさせたところ、答えた者は全員が貴方の名を挙げました。協力者になり得るなら貴方以外にない」
言葉が出てこない。誰が、何を、どのように喋ったかは知らない。ほとんどの情報は開示されたと見るべきなのだろうが、ナギ自身にとってそれが不利な状況を作るとは思ってもみなかった。なぜなら、彼女は何一つ事態を把握していない。真実などというものとは、ほど遠いところに突っ立っていたのだから。
「スタンフォードは日ごろから、機関の在り方に反発している節が見られた。ニーベルングの存在を擁護するような言動も後を絶たなかった。そのことを貴方が知らないはずはない。寧ろ肯定していたといっていいでしょう。その点については」
「それは……」
「彼は末期のニブル病患者でもある。自身も部下もそのことは承知していた。ニーベルングの自然治癒に関して、彼が研究していたという情報も出ています。そのことは?」
「ニーベルングの生態や、ニブルについて勉強していたのは確かです。でもそれは純粋に知識欲からだったと」
「貴方の見解は不要です。事実だけを述べてください」
ナギは黙ると同時に奥歯を噛みしめた。事実というものが現象のことのみを指すなら、それはサクヤにとって(あるいは自分たちにとって)不利なものでしかない。結論は初めから出されているのだ。その根拠として都合の良い証言をかき集めるため、彼らは決まった質問をたたみかけているにすぎない。
「ファフニールという単語を、彼の口から聞いていますね」
頷くか否か、ナギはそのときだけ一瞬考えた。
「……聞いています」
第一の魔ガン、引き金を引くだけで濃縮ニブルを散布し、人体をニーベルング化させる欠陥品──実在するかどうかも怪しいその魔ガンの名は、この場では至極当然の代物として語られるようだった。
「スタンフォードは部下にファフニールの所在を調べさせています。その後、彼の権限では入れないはずの地下第二層に侵入している。ファフニールを手に入れるためと見て間違いないでしょう」
「待ってください。部下……って、八番隊の誰かってことですか」
「質問は認められていません。こちらの問いにだけ答えなさい」
自分以外の誰かが、サクヤからファフニールについて聞かされている──? そんな話は知らない。誰一人としてそんな素振りは見せていない。
「ファフニールは機関の最重要機密です。スタンフォードはそれを計略的に強奪し、自分に向けて使用することでニブル病による死から逃れることに成功した。その一連の補佐を務めたのがナギ・レイウッド曹長。貴方です」
「……っ、だから、違います。全てつじつま合わせじゃないですか。何一つ証拠がないのによくもそんな……」