episode viii 狡猾な天使は微笑わない


 相も変わらず空一面に暗灰色の雲が広がっていた。少女は惜しげも無くうんざりした表情を晒して、裏庭で洗濯ものを干している。父のシャツ、自分のシャツ、タオルが数枚。どれも白いか淡い色合いばかりの中で、一枚だけの真っ黒なシャツはどうにも目立つ。少女は、その仲間はずれのシャツも他のものと同様に丁寧にしわを伸ばし、干した。自然に笑みがこぼれる。
そろそろシャツの主が、空腹を主張しながら戻ってくるはずだ。などと考えていた矢先に、微かにドアベルの音が聞こえる。
「うあーっ、疲れたあぁ~、お腹減った~! アカツキさ~ん!」
そして大音量で店内に響く女の声。そろそろ招集がかかる頃合いだとふんで、少女も急ぎ、残りの洗濯ものに手をかけた。
「カリーン。飯にするぞー」
「はーいっ。今行くよーっ」
抜群のタイミングで父の声が響く。最後の洗濯ものを干して、少女は踵を返した。
 裏口から店に入るとすぐ自宅用ダイニングに出るが、当然のように誰もいない。賑やかな声が聞こえるのはカウンターテーブルを跨いだ先からで、カウンターの内側では父・アカツキが調理しながらその客の相手をしているようだった。厳密に言うと客ではない。店は夕方からで、本来昼間は営業していないのだ。だからというわけでもないが、少女はこの「客」たちに「いらっしゃい」という言葉をかけたことはない。
「ナギちゃん、シグくん、おかえりー。今日もお疲れ様ー」
「ただいまーカリンっ。先に食べてるよー」
「ただいま」
 カウンターには、黒いシャツと灰色のジャケット──対ニーベルング機関“グングニル”の制服を着た男女が隣り合って座っている。通常の1.5倍サイズのオムライスを頬張っているのがナギで、バゲットをスプーン代わりに特製ドミグラスをちょいちょい摘まんでいるのがシグ。二人とも四か月前までは叔父、つまりサクヤ・スタンフォードの部下だったという話だ。今の彼らにとっては、ここ最近頻繁に市街に現れる巨大なニーベルングの討伐が最重要任務らしい。それと同時並行で、行方不明になった叔父の行方を捜している。
「今日は、どうだったの?」
分かりきったことを聞くのも可哀そうだが、通例だから聞いておく。
「申し訳ありません、カリン隊長。収穫ゼロ。サギもここのところちっとも出てこないし、手がかりもないし、零番隊はちょろちょろ鬱陶しいし……。あ! そうだ、アカツキさん聞いてよっ! この間のストーカー事件のオチ!」
絶品のオムライスを貪りながらも、愚痴を吐いたり嘆息したりとナギの口は忙しい。半分以下になったコップにカリンが水を注いでくれたのを見て、お礼も忘れず述べる。
「分かったから食べるのか喋るのかどっちかにしてくれ。ったく、お嬢様みたいな顔してるくせに行儀はまるでなってねえな……」
「じゃあ喋る! だって屈辱的なの、ほんっと信じらんないっ。一週間も付けまわしてきといて『あなたの魔ガンさばきに惚れました……』ってあの男、馬鹿じゃないの?」
「なんだ、そっち系か。ある意味無害だろ、良かったじゃないか」
「良くなぁい! 私じゃないの! シグ! 付けまわしてたのも盗み見してたのもぜーんぶシグ目当て! 『今度一緒に食事でも』って……あいつ何のために零番隊にいんのよ、空気読めっての」
青筋を立てて力説するナギの横で、シグは半眼で黙々とバゲットをかじる。確かに一昨日、そういう輩をふんづかまえて自分たちを追う理由を問い質したが、その内容についてナギがここまで立腹していたというのは初耳だ。無論、シグは丁重にお断りしている。
 カウンター越しのアカツキはからからと片眉をあげて笑っていた。こういう分かりやすい表情を作る点では、アカツキはサクヤと似ても似つかない。歯に衣着せぬ物言いも、無精ひげも、項で一本に縛った長髪も、似ていない点など数えだしたらきりがないのだが、それでもサクヤを少しでも知っている人間なら二人が血縁者だということはすぐに分かる。目鼻立ちは元よりその声が、眼を瞑ると聞き分けられないほどに良く似ていた。
 アカツキ・スタンフォードは、中央区グラスハイム市の片隅でバールを経営するサクヤの兄だ。早くに結婚した妻は、ニブル病でやはり早くに亡くしている。一人娘のカリンは今年で14、男手ひとつで育てたにも関わらず、気が利く女の子らしい子に育ってくれた。そして妙なところで聡い。察しが良いと言うべきか、大人の事情というやつに鼻が利く。だからこそ今回、サクヤの失踪についてはどう説明すべきか頭を痛めたわけだが、結局、行方不明になっていることは事実として伝え、サギとの関連は伏せることにした。アカツキ自身は、当然全てを聞かされている。
(まあ、あの頃に比べりゃあいろいろマシか……)
 ナギの愚痴を聞き流しながら、アカツキはふと四か月前のことを思い返した。
 暮れも差し迫ったある日、グングニル機関の上層部がやってきて、まるで死刑宣告でもするかのように弟の処遇を告げて去った。その翌日に、今度は死刑宣告されたかのような血の気の失せた顔でやってきたのがナギだ。サクヤの部下だと、補佐官だったという彼女は説明こそ機関と似たようなことを言っていたが、その途中何度も頭を下げ、何度も謝罪の言葉を口にした。こんなことになったのは補佐官である自分の責任だと言って、泣いていた。
 アカツキの脳裏には今もその姿が鮮明に刻まれているのだが、眼前でオムライスをがっついている彼女を見ているとどうも別人だったような気がしないこともない。
「……おかわりあるぞ」
「いただきますっ」
 特製ジャンボオムライス1.5人前を平らげてなお、彼女の胃袋は満たされないのか。スプーンを握りしめたまま瞳を輝かせるナギの横で、シグがこれ見よがしに嘆息していた。こいつはこいつで極端に食べない。思春期女子でも今時シグよりは食べる。現に、カリンはナギの横でにこにことジャンボオムライスを食べているのだから。
「シグ……お前はあれか。酒を浴びるように呑むタイプか」
「はい? ……いや、普通、だと思いますけど」
 脈絡の無い質問に謎の不安を覚えて、シグはナギの方を見やった。アカツキも、シグ当人の回答が信用ならないのか、同じく視線をナギへ。
「普通じゃない? 本当にごくごく普通」
「だったら何を動力源に動いてんだよ。食え、もっと。毎日毎日小鳥のようにパン屑なんぞついばみやがって」
などと皮肉を吐きながらも、アカツキがシグに推し進めるのは消化に良さそうな野菜スープだ。アカツキの料理に限定するなら、シグはグングニル本部に居た頃よりも食べるようになっている。特別な理由は無い、要は美味いからだ。
 ナギとシグは、このアカツキのバールを主な拠点にして“サギ”の捜索を続けている。捜索、討伐とは言っても闇雲に大陸全土を巡るわけにはいかないから、零番隊のほとんどの隊員はナギたちと同じように市街地で網を張っている。その消極的方法が一番“サギ”との遭遇率が高いからだ。
「今回はまるまる一ヶ月音沙汰なし、か」
 カウンター奥の壁にぶら下がっているカレンダーを見て、ナギが呟いた。
 グングニル機関が設定する最大等級である「コンドル級」に認定されたサギは、四ヶ月前の本部塔襲撃以降、定期的にグラスハイム市に姿を現すようになった。本部塔の上空をただ旋回するだけのこともあれば、市街地を縦横無尽に飛び回ったり、大量のニブルを吐き捨てて去っていったりもする。サギの行動はその都度異なるが、二週間に一度はグングニル本部塔近辺に姿を現すことは確かだ。
 捕捉はしているが未だ接触はない。ナギとシグはそういう四ヶ月間を過ごしていた。無為と言えば無為、焦燥はもちろんある。
「愚痴っても焦ってもなるようにしかならないだろ。あっちが気まぐれなら、こっちはそれに振り回されないように準備を怠らなければいい」
「それはそうなんだけど……」
シグの冷静と正論が、これに関しては功を奏さない。
「はーい。提案でーす」
 横でひたすらオムライスを頬張っていたカリンが元気よく挙手して、カウンターチェアから軽快に降り立った。