episode viii 狡猾な天使は微笑わない


予想外のところで褒められたことと、ようやく魔ガンを下ろしてくれたことに礼を述べる。そして今更ながらに、カタコンベに取り残されていた女性は救えたらしいことを確認する。意識の最後部分を辿ってみてもそれは自分の功績ではないように思われたが、弁解するのも妙な話なのでとりわけ何も言わなかった。それよりもあのとき──。
 コンコン──と控えめなノックの後、返事をする前にアカツキが顔を出した。
「それじゃあ、私は失礼するわ」
「悪かったな、ユリィ。助かった」
「……別にアカツキに謝られるようなことも、礼を言われるようなこともしたつもりはない」
「そうか。俺は送ってやれんが、気をつけて帰れよ」
さも呆れたと言わんばかりに、ユリィは深々と嘆息して退室した。いや、凄い。ここまで天邪鬼だと、見ている方が感心する。アカツキに先刻のやりとりを見せてやりたかったが、それはそれで波紋を呼びそうなので胸中にとどめておいた。
「今日はぐっすりだと思ってたんだがな。まぁ、そのまま寝てろ。腹が減ってるなら簡単に作るが、どうする?」
寝たままでゆっくりかぶりを振った。申し訳ないとは思ったが、起き上がるには全身が痛すぎる。
「アカツキさん……ごめん」
自分でも驚くほどの弱々しい声だった。アカツキも虚を突かれたように固まっている。が、次の瞬間にはこれでもかと言わんばかりの特大の嘆息をしてベッド脇に腰をおろした。
「無茶はしてくれるな。心臓がもたん」
「うん、分かってる。もっとちゃんと……しないと。ごめんなさい」
「そういう意味で言ったんじゃない。……だからお前が泣く必要は無い。チビがなんか言ったか?」
また寝たままでかぶりを振った。包帯だらけの手で顔を覆う。途端に世界が真っ暗になった。真っ暗な中で熱を帯びた水だけが次から次へと溢れて落ちていく。落ち着こうと意識すればするほど涙は加速して頬を伝った。吐いた息に嗚咽が混ざる。
「アカツキ、さん」
「うん?」
 確認するように名前を口にした。そのはずなのに、暗闇の中で聞くアカツキの声はどうしようもなく「彼」のものに似ていた。ナギの行為はそれを改めて確認するだけのものだった。
「サクヤはもう、この世界のどこにもいないのかもしれない」
言うつもりのないことが──胸中に隠し続けてきたものが──堰を切ったようにあふれ出た。白い両翼を羽ばたかせて去っていったニーベルング。街を壊し、ニブルを吐き出し、人々を恐怖の底に叩き落とした「サギ」という名の討伐対象。それはナギが知る「彼」とは全くの別物だ。それは認めるべき事実なのか、否定すべき虚実なのか、もう彼女には分からなくなっている。
「サクヤのいない世界は……夜が、ずっと続いてるみたいに暗い。あの日からずっと……暗いままなの」
それだけが、今ナギに分かる全てだった。
 あの日からもう何度となく夜と昼とを繰り返してきた。満天の星空も満月も、晴れも雨も関係ない。ただずっと夜が続いた。何一つ輝くことの許されない完璧な朔の夜が、普遍の規則を破って繰り返された。それとも──あの日に取り残されているのはナギ自身なのかもしれない。
 アカツキが小さく吐息をつくのが分かった。その直後に、額に温かい感触。アカツキの手のひらは、ナギの両手を包み込むほど大きい。
「そう言うな。真っ暗闇でも、一人じゃなきゃなんとかなる。それに、明けない夜はないって言うだろ。それまでは俺が──」
言いかけて、アカツキはそれきり口をつぐんだ。ただナギの額に乗せた手でリズムを取って、嗚咽を漏らすナギをあやし続けた。
「ユキスズカの花言葉、結局教えてないままだったな」
「花言葉……?」
「ああ。“あなたを守る”──あれはそういう、意志の花だ」
アカツキの穏やかな声を聞きながらナギは何も考えず、泣けるだけ泣いた。何も考えたくなかった。今だけは全ての絶望から目を逸らしていたかった。このまま眠って明日の朝目が覚めたら、また終わりの無い夜の世界を歩かねばならない。眠りたくない。眠りたくない。眠りたくない。
 祈るように胸中で繰り返した。彼女はこの深淵を既に知っている。

──私はまた、あの教会のカタコンベにいる。暗くて深い闇だけの世界に──