「あなたの分が……」
「私は大丈夫です」
マスクは必要ない。どれだけニブルが充満していようがナギには関係ない。強いて大丈夫じゃない箇所をあげるなら、絶対どえらいことになっていると確信を持っている背中の激痛と、この吐き気。
それでも、弱音は呑みこんで一歩一歩階段を上がった。歩を進めるごとに誰かが──何かが──ささやく声が脳内を駆け巡る。
ひそひそひそひそ──目を閉じてじっとしていれば──
そうささやくその声には覚えがあった。今は考えるな、思い出すな。ここは現実だ。それで解決することは何も無い。
ひそひそひそひそ──何も見ず、何も聞かず、ただ光を待っていれば──
ここは現実だ。まごうことなき残酷な現実だ。うずくまったら爆発に巻き込まれて何もかも弾けとぶ。
ひそひそひそひそ──私は救いの手を掴むだけ──
結局いつも、それだけは変わらないのだと自分が情けなくなる。階段の終わりで誰かが血相を変えて手を伸ばしていた。とてもよく知っている人だ。大丈夫。何度もその手をとってきた気がする。その手は必ず、自分たちを正しいところへ連れて行ってくれる。わけもなくそんな確信を持っていた。
「ナギ! 早く来い!」
とてもよく、知っている声だ。この世で一番信頼している人の声だ。なのに何故涙が出るんだろう。
「ナギ!」
滲む視界に手を伸ばした。その手をとったのかどうかはよく分からない。大きな爆発の音と熱と光で、彼女の意識はそれきり完全に暗転してしまった。
夜は変わらず訪れた。こうして時だけが、何にも動じず普遍の規則を守り続けている。その普遍にして絶対のルールに人間は抗う術を持ち得ない。だからこそ人はそれを無情だと嘆き、唯一の平等だと拝した。
夜は訪れ、月は輝く。無機質に繰り返される世界の一様相。シグが佇む廊下の窓から見えるのは、そういう変わり映えのしない風景だ。
「そう見張ってなくても、寝てる人間に何かするほど外道じゃないさ。チビも」
アカツキが苦笑を漏らしながら二階にあがってきた。二階というのは、アカツキの店の二階部分のことで、基本的には彼らの生活スペースである。今はアカツキの私室を占拠して、ナギが昏々と眠っている状態だ。そこへ先刻、ひょっこりとユリィがやってきた。彼女を呼びつけたのは他でもないアカツキだ。確かに手当てだろうが看病だろうが、全てをシグとアカツキがやってのけるわけにはいかない。
「そういうつもりじゃないですよ。……カリンはもう寝たんですか」
「一日気ぃ張って疲れてたみたいだな。ナギちゃんナギちゃん言いながらさっき眠ったよ」
シグはそうですかなどと有体の相槌をうつと、視線を再び窓の外へ向けた。特に感慨の持てない、つまらない風景をつまらなそうに眺める。その実、頭の中では別のことを考えていた。シミュレートしていた、と言った方が正しいのかもしれない。この先起こり得る状況の想定ではない。ほんの数時間前、教会の扉を開けた後から今に至るまでの過去のやり直しだ。
ラインタイトが間近で誘爆するということは、すなわち魔ガンの直撃をその身に受けるようなものだ。そんな爆発が教会内にいる間だけで三度起こった。一度目で教会の外壁が崩れ、ありとあらゆるステンドグラスが割れた。二度目で礼拝堂が半壊、その時点でシグは限界だと判断した。その判断が間違っていたとは思わない。ただしその後の自身の行動については、いくつか思うところがある。
シグはカタコンベへ下りていくナギを止めなかった。体験したことのない恐怖に直面し、成す術のない人々を優先させた。一度も面識の無い、名前も知らない他人だ。理不尽に対して不安を吐露することでしか抵抗できない、哀れな弱者たち。そういう連中を真っ先に避難させて、ナギの後を追わなかった。結果、想定どおり三度目の爆発は起こり、カタコンベへ続く階段諸とも小部屋は吹き飛んだ。
その瞬間に、頭の中が真っ白になったのを覚えている。閃光が走り思考が焼き切れた。取り返しの付かない判断ミスを犯したことだけは分かった。数十秒、いやほんの数秒だったか、立ち尽くすシグの前に現れたのは、ナギを抱えた煤だらけのアカツキだった。真っ先に口をついて出たのが「なんで」という単純すぎる疑問だった。少し考えれば分かることだ。考えなくとも、肩を上下させて泣き喚くカリンの姿を見れば一目瞭然。要はカリンが、カリンだけがこの場で正しい判断というものを行い、想定された最悪の事態に対処すべくアカツキを呼びつけたのだ。
「シグももう寝ろ。朝になりゃ、ナギも起きてくるだろ」
シグの思考を遮断する、現実のアカツキの声。欠伸をかまして踵を返そうとするアカツキを、シグは何とはなしに呼び止めてしまった。また判断を誤った気がする。呼んだからには切り出さざるを得ない。
「アカツキさんは、なんであんな危険なことをしたんですか。一歩間違えば共倒れだったのに」
「なんでってそりゃあ。ナギはうちの大事なお母さんだからな」
何でもないことのようにそう言ってのけるアカツキに、シグは苛立ちを隠せずに目を伏せた。
「……どこまで本気で言ってるんですか」
「お前こそどこまで本気だ? 他のもんと秤にかけた時点でお前の本気ってのはたかが知れてる。あそこで二の足踏んでるような奴にナギは任せられないと思ったから俺がしゃしゃり出たまでだ」
「サクヤ隊長の代行でもするつもりですか」
「さあな。そいつはまた話が別だ。だいたいからしてあいつが話をこじれさせてんだからな」
肩をすくめておどけてみせるアカツキの横を、シグは無言で通り過ぎ階下へ下りていった。
「……いじめすぎたか」
やれやれと言わんばかりに嘆息してアカツキは自室のドアに手をかけた。そして思いとどまって、手の甲を振り上げた。
「気分はどう?」
目を覚ましてすぐ耳元で響く、機械音のような抑揚の無い声と重火器を構える音。身体は横にしたままで視線だけを声のした方へ向けると、案の定ユリィが魔ガンをこちらに向けて立っていた。
「魔ガンを向けられて気分はと問われても返答に困る」
「意識ははっきりしているようね。面倒がなくて助かる」
生返事だけをして、ナギは自分が置かれている状況を推測することにした。見覚えのある天井に、かすかにアカツキの香りがするベッド、カーテンの隙間からちらと見える色は漆黒。少なくとも四時間以上は気を失っていたらしいことが分かる。それから、丁寧に手当てされた背中の裂傷、きちんと着替えさせらた寝巻き──まさかとは思うが。
「何」
「いえ……もしかして手当てを、して頂いたのかと」
「普通するでしょ。それともアカツキか、エヴァンス曹長に任せた方が良かった?」
ナギは小さく「いえ」と返すしかできない。下手な回答をしたらこのまま撃たれそうな気がする。そもそも何故自分は魔ガンを向けられているのか。その疑問はすぐに氷解した。
「今度今回のような無茶な真似をしてくれたら、そのご自慢のおみ足、両方とも撃たしてもらう。貴方に振り回されてアカツキもカリンも動くから」
なんとも分かりやすい理由と戒めだ。ユリィにとって、この家の住人は第一優先事項なのだ。
「……ともあれ、あの女性を救えたことは貴方のお手柄」
「……どうも」